違う宗教の人に対して謙遜であること -恩師K師の姿勢

「先生の所には、本当によく人が集まりますね。」

と尋ねると聞くと、恩師のK師はよく言っていました。

「そうねぇ、私はお友達になるの。

私から「私とお友達になって頂戴ね、って言うの」」

 

K先生は、そう言って、どんな人とも「お友達」になるのである。

信徒の家庭のご家族と、あらゆる国籍の人、茶髪の若者に神学生、

サラリーマンに、お医者さん、看護師さん、果ては家に来るヘルパーさんまで、堂々と何にも物怖じすること無く「お友達」になっていくのである。

 

相手に信仰を持ってもらう、とか、救われなければならない対象である、とかそんな風には接していなかった。

 

相手が例え、信徒さんでも、神学生でも、一般人でも姿勢は同じだった。

扱い方は変えていたと思うけど。

K先生は90歳を越えている。

歳を重ね、立場があれば、要らぬプライドばかりが身につくものだけれども、

先生は自分自身が教えられる立場に立っていた。

自分よりもはるかに若い人からも。

何かを教える時は、相手の必要に応じて、教えている。

 

「ヘルパーさんがね、やさしーい言葉遣いで話すのよ。まるで幼稚園児に話すみたいにね。

だからね、私その時、相手に合わせて「は~い」って言ってあげるの。」

と言っていた。恐るべきユーモアと柔軟性(笑)。

 

話すと、こちらが話す時が長くなる時もあれば、先生が話す時間が長くなる時もある。

謙遜さを見るような思いである。

 

 

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人の姿勢というのは、どんなに礼儀正しくても伝わるもので、相手を「未信者・伝道の対象者」と捉えていたら、その気持ち悪さは簡単に察知される。

自分だって気持ち悪い。

玄関にやってきた、エ❍バの証人の人と話せば、相手がどんな気持ちになるか体験できる。

そうやって、熱心だけれど、人が寄ってこない在り方は…孤独だと思う。

 

特に何を伝えるわけでもないけれど、相手と過ごす時間を楽しんで、心を共有する事ができれば、そのほうが豊な関係ではないかと思っている。

一緒に過ごす時間も増えていく。相手の気持ちも分かる。

本当に良いものであれば、人は自然に集まってくるし、自分も相手に関心をもつ。

 

近所の人と、お店の人と、一般の方と、自然に触れ合う。

 

一体、それが自然でなくなってしまったというのは、逆にどういう世界のせいだったのだろう。

 

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私も、肩肘張らずに色んな人の「お友達」にしてもらう。

それで、仏教の人、別の何やら教の人、とも知り合いになる。

そうして、色々な方の世界を楽しませてもらっている。

それどころか、よく助けて頂いている。

 

加えて、神学校や、教会を通ってきて、自分なりに気をつけていることがある。

それは、立場を利用しないということだ。

一般的に言えば、立場が上下になるとき、

先輩、後輩、仕事で先の立場であるとき、お店の店員さんに対して、など、

こちらの発言権が強くなりがちな関係ほど、相手を大切にするように気をつけている。

 

なぜなら、力関係でモノを言えるような時ほど、自分の実質が出るから。

どんなに他の人に丁寧で素晴らしい人でも、家族に対して横暴だったら、横暴な人である。

部下をいじめていたら、意地悪な人である。

 

陰で身に付けた自分の振る舞い、実質は、必ず表に現れるものである。

いかなる立場でも隣人への姿勢が、神様が創られた人への姿勢である。

ひいて言えば、もしかしたらその小さき人が、イエスさまの可能性もある。

「あなたはわたしが渇いている時に、水一杯飲ませず…」とあるのだから。

 

一番身近な関係に気を抜かない。

身についているか、実行できているか、まだまだだと思う。

小さな積み重ねが、自分の実質になっていきますよう。