ジョン・M・ドレッシャー『若い牧師・教会リーダーのための14章』いのちのことば社、2013年。

教会員のTさんに貸してもらいました。
『もしも私がもう一度、家庭をやり直すことができたなら(邦訳『若い父親のための10章』)』
『もしも私がもう一度、結婚生活をやり直すことが出来たなら(邦訳『若い夫婦のための10章』)』
の著作がある、著者による『もしも私がもう一度、牧師をやり直すことが出来たなら』バージョン。
経験を元に書かれている。
牧師が書くのは、このタイプが多い。組織立っては居ないが、経験という裏付けが何よりの説得力だろう。
印象に残った箇所
p61
「西ヨーロッパの教会が衰退したのは、長年にわたって弟子訓練がなされてこなかったからだと指摘する人達がいる。今日、北アメリカの教会も同じ道を辿っている。
最近出されたもので、弟子訓練について語った『弟子を作る牧師』という本があるが、その中で、著者のビル・ハルは次のように言っている。
「イエスがなさったように、牧師たちが出し訓練を始めるまでは、教会にはさしたる変化はないであろう。またその教会が牧師たちに、何の目的意識も持たない不従順な多数の人々に牧会の労を期待するよりも、霊的な少数の人達の訓練に時間を費やすことを求めるように成るまでは、教会の人々は、キリストが望んでいるようには生きず、奉仕することもないだろう。」」
p86
「「説教者の失敗」という文の中で・・・ブリュワー・マトリックスは、私達の中の「高い塔」を次のように打ち壊している。
厳格そのものの牧師が
教会の高い塔に登った。
神にもっと近づき、
神の言葉を民に伝えるために。
日が昇り、日が沈んでも、
その善良な人はこの世のことは全く気にかけずに座していた。
超越した世界の中で、ずっと聖書を読んでいた。
時には風見鶏のキシル音を耳にし、
彼は目を閉じ、言った。
「神からの真理を、今学んでいるんだ。」
説教ノートに彼は毎日書き込んだ。
天から送られてきたものであると彼が思うことを。
彼は、これを人々の頭の上に落とした。
週に一回、そして二回。
年をとって、神は彼に言われた。
「そこから降りてきて、死を迎えなさい。」
彼は塔の上から叫んだ。
「主よ、あなたはどこにおられるのですか。」
主は答えられた。
「下だ、わたしの民の中にいる。」
p91
*偽りの指導者のしるし
1 偽りの指導者は「説教することはするが、実行しない」人たちである
「指導者が、自分自身のなりたくないものに求めたり、したくないことをするように要求するのは、まさに偽善である。
イエスはまた、「重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしない」人のことも述べておられる。(マタイ23:4)」。だから私達は、自分では決して実行しないことを説教したり、教えたりする人を警戒しなければならない。」
p96
「確立された教会では、新来会者をなかなか受け入れることが出来ない構造を持っているものである。こうした教会は、その教会員の会員として結婚して転会をしてきた人や、大切な決定をしなければならない時にも自分の意見を言わない無難な人をわずかに受け入れるくらいである。もしもわたしの経験から得られたこの判断が、あまりにも乱暴だと言うのであれば、その人は例外的な教会に恵まれたことを喜んでいいのではないかと思う。」
97p
「もしも、私がもう一度牧師をやり直すことが出来たなら、、どこで奉仕するかを決める前に、その協会の必要がどこにあるかをもっとよく考えたいと思う。」
p119
「私は、自分の限界を受け入れるようにしたいと思う。
私は、しなければならないことがすべてできるわけではない。すべての人の必要を満たすことなど出来ない。…何かが未完成のままに残るのだ。
私は、自らの人間としての弱さよりも、むしろ怠惰、無関心、だらしなさ、遅延を避ける事にココトを用いるべきであろうと思う。」