どこであっても歌います

来週水曜、こちらで初メッセージです。

祈祷会。

教会の雰囲気とか、流れとか、必要とか、考慮して作っているつもりだけど、あぁ…。

ここでかぁ。

ここでやるのかぁ・・・。

 

1回だけで終わったりして(笑)。

 

メッセージは、だめなりにも力を入れてきた。

メッセージは礼拝の心臓部だと、神学校で教えられたこと、取り組み続けてきた。

 

メッセージ…で、その場で、そう、何かと戦っている。

 

歌を歌うように、と思ってきた。

メッセージを通して、歌い手の思いが、情熱が、生き方が、誰かに感動を与えられるように。

希望が、そこにあるように、せめても、天国を夢を、見せてあげられるように。

 

支持してくれる人たちの中で、歌うのは、楽しい。

 

でも、また未知の場所で初めから。

それも、立場も考え方もかなり違うと思える所で。

右翼と左翼が一緒に仕事してるようなもんなのに。

 

ギター一本で勝負しているような気持ちになる。

誰でも持っているような楽器で、道端で勝負しているような気持ちになる。

また、路端から再スタート。

 

でも、それが訓練というもの。

もし、多くの人に支持されることが必要なら、ここでも、どこでも、

誰かの心に喜びを与えられるように、思いに留まることが出来るように、

厳しい評価に耐え、訴えられる力をつけなければいけない。

 

本当の実力として身につけていくなら、

慣れた場所ではなく、慣れていない場所で鍛錬されなければ。

 

初めから何かがあったわけではない。

信念も、話し方も、組み立て方も、下手くそなりに工夫して今がある。

 

まだまだ、自分なりの在り方を探しながら、

自分でなければ出来ないことを編み出していく。

 

例え下っ端であろうと、自分はネットや、事務仕事で戦っているのではない。

 

見えない世界で、意味の世界の音を聞いている。

風に運ばれてくる、色々な世界の匂いを、

人々の魂の質感を確かめている。

 

ギター一本で、また歌い始める。

見も知らない人々の表情を確かめながら、匂いを嗅ぎ分けながら、

安全地帯を踏み分けながら。

光と闇の分かれるところ。

 

天の国と、地上の縁を

だらだら、のらくら生きていく。

 

うろうろ、フラフラ、踏み外しながら、

時々がっつり噛み付きながら、

生きていく。

どこであっても歌います” に対して2件のコメントがあります。

  1. さら より:

    初めまして。検索からたどり着き、あちこち読ませていただいています。

    「天の国と、地上の縁を
     だらだら、のらくら生きていく。」

    まさしく。涙が出そうです。

    1. church-mgmt より:

      さらさん、こんにちは。
      私がこれを書いたときは、とても辛いときでした。
      地上でのあらゆるプレッシャーの中で、天国を感じながら生きたいと思っていました。
      あちこちで闘っている、同労者の方々が、元気で、健やかであるように、
      神さまの恵みを一番味わうことが出来るように、祈っています。

      神さまは私達のさすらいを知っておられる方。
      涙を蓄えていてくださる方(詩篇56:8)。

      痛みと向き合える人は、多くないと思うんです。
      荒野への、招きもあるかもしれません。
      祈っていますよ…!

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