教会を離れたときの怒りと絶望感

だからもしも、神さまから与えられたと思うミッションを、

幾多数多の困難を通り抜けて成し遂げようと思うなら、

エネルギーをどこから補給できるか考えないといけない。

 

ビジョン(個人のもの)なら、やりたいこと、っていうこと…自己実現がエネルギー源になる。

これは、やりたいことと、ビジョンが一致している場合。

 

自分の場合として、ミッションのエネルギーは「やりたいこと」、からは出てこない。

ミッション成し遂げても、自己実現、自分のなりたい自分じゃないから。

そこが、目的じゃないから。

ミッションのエネルギーは、自分の場合責任感や正義感。必要とされている働きだと思うこと。

 

やりたいこと、からエネルギーを汲もうとすると、限りなく反対方向へ走りだしてしまう。

ミッションは、そう思うと、神からエネルギーが配給されるのではないだろうか。

だって、神さまが願ってることなんだから。

 

「ミッション」と、「やりたいこと」は違っていても、きっとそれでいい。

私はどうしていこうか。

 

逆に考えてみたい。

もしも、私のビジョン、「自由」に走り出てみたら、何が私のエネルギーになるだろうか。

「あーよかった、これで宗教からおさらばだ。

もう、あんな意地悪な訳の分からない人たちのために、頭を悩ます必要はない。

神さまも助けてくれるし、これから一生懸命働いて、理想だ希望だなんてことは考えないで、とにかく地味に楽しく生きていこう。」

多分こういうエネルギー。

 

だからもしも、

ミッションを継続させていこうと思ったら、私は怒りをどうにかしないといけない。

 

散々に痛みとなった、キリスト教会での混乱と怒りを整理しなければいけない。

これでもまだ、ミッションに生きていくのか、いけるのか、

この、深い絶望感をどうにかしなければ、前に進むことが出来ない。