嫌われる勇気
風邪をこじらせて以来、耳の調子まで悪くなってしまいました。
聞こえが悪いからか、ひどい頭痛が起こります。痛み止めが手放せません。
耳鼻科に行くかな…風邪が治ったら治ると思ったのだけども。
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牧師に必要なもの、2つ目は「嫌われる勇気」だと思う。
人の評価から自由になるということだ。
イエスさまって、知っての通りの自由人。
(ほんと、自由ですよあの人)
キリストは良い評価をもらおうとしたのでも、悪い評価をもらおうとしていたのでもない。
相手が自分をどう受け止めるかということについて、色々と画策しようとすることはしなかった。
キリストは、ただありのままの存在であった。
父に愛された、そのままの自分として。
他者とどんな関係を築くことが出来るのか、キリストは、相手の自由に任せている。
もちろん、よく思ってくれている人のことを、イエスさまは嬉しく思っておられるだろう。
でも、自分を賞賛してくれる人の評価を失うことを怖れたり、支持してくれる人を手放さないように支配してみたり、遠慮してみたり、ということはしない。
自分を嫌っている人達の前で萎縮してみたり、どうして好かれないのだろうと悩んでみたり、好きになってもらえるように、ちょっと毛色を代えてみたり、ということもしない。
岸見一郎、古賀史健著『嫌われる勇気』ダイヤモンド社、2014.
近日たまたま目にして買って読んでみた。
哲学くさい本ではあるが、考え方の方向性として、面白い示唆を与えてくれる。
「他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを払わない限り、自分の生き方を貫くことは出来ない。」p163
この本の中にも、キリスト教に関する部分は出てくる。
ニーバーの祈り、「変えられないことを受け入れる勇気を…」の下り。
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福音を生きていく、楽でない部分であり、そしてどこかで直面する壁。
神の前に義とされる証しを、人の、又は組織の評価の中で得ようとする誘惑。
深い信仰の根っこの部分で葛藤する。
不信仰者といわれはしないか。
献身が徹底していないと言われはしないか。
先生に逆らうなんて、教会の人々からのけものにされ、排除されるのではないか。
組織のいうことに異議を唱えて、私は評価を、立場を失うのではないか。
何かを貫くということは、堂々しょっぱなから
「申し訳ないけど、君の評価なんて、要らない。」
と、言い放つくらいの気概が必要になってくる。
イエスさまが、食事に招かれるなり、そこにいたパリサイ人たちを「罪人」呼ばわりしたように(ルカ11:37)。
人の評価から自由になる、ということは、
他者の中に、自分を嫌いになっていい、という選択を委ねることだ。
そう考えてみると、嫌われたくない、という心理は他者の気持ちまでコントロールしようとしている無茶な試みであることも分かる。
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神学生の時、先生方からの評価というものは恐いものであった。
先生方から浴びせられる、身の振る舞いからスカート丈に至る、陰湿な注意を恐れて、神経過敏になる学生は少なくなかった。
杭は打たれる。出てなくても打たれる。
出る杭は、当然打たれる。
下手なことを言えば、非難轟々。
驚くべき処遇の数々。
こういうことを繰り返して、人の心に何かが刻まれていく。
神学校でも、教会でも。
一歩を踏み出せば…矢が飛んでくるのだ。
何に軸足を置いて生きるのかは、信仰者の姿勢を明らかにしていく。
非難轟々の道は、確かに大変な作業の繰り返しになる。
しかし、矢が5本になり10本になり、50になり、100になると、一体何本増えたのか、減ったのか分からなくなってくる。
いつも飛んでくるから、段々どうでも良くなってくる。
そして、実はその陰で、応援してくれる人もいることに気がつく。
話す対象が、10人になり、20人になり、50人になり、100人になり。
もう、一体誰に嫌われているのか、好意を持たれているのか、ますます分からなくなってくる。
私が何を言い、何をしなかったから、好かれるのか好かれないのか。
現実に、自分で考えられるスピードや範囲が追いつかない。
人の評価で生きていくことは、難しくなる。
ただただやるべきことは、神さまと自分の関係で示されていることだけ。
まるで、暗闇の中で方位磁石を頼りにして進むように。
何も分からないまま、
幾百の人の表情を過ぎゆきながら。
収集不能の自分の選択の中を、駆け抜けていく。
一体自分がやっていることが、主の心にかなっているのかどうか、ひたすら信じて
駆け抜けていく。