手を抜く技術
牧師に必要な能力。
いくつかあるのだろうけど、近日思わされるものはまず第一に
「サボる能力」 だと思う。
別名
「サバイバル能力」 とも言う。
つい先日も、神学院に入学を控えた学生に
「何を持って行ったらいいですか?」
と尋ねられて、
「なんかサボるもの持って行ったら?」と言って
「え!?」
と聞き返されて焦ったことだった。
大体牧師になろうなんて人は真面目過ぎる。
自分が神学院で真面目すぎて、言われたこと全てに取り組み、鬱寸前になった。
世の中には、人には重荷をのせるのだが、自分はよく分かっていないという、
お目出たい方々がいるということを忘れてはならない。
天才とバカは紙一重というが、そういう類の方々なので、常人はあまり真似しないほうが賢明。
振り回されるだけバカを見る。
だが、宗教という異常性も賞賛される現場にいるために、懸命にやっていないと「不信仰者」又は「罪人」の烙印を押されかねない。
それで、真面目な私が学院で学んだのは「サボる技術」だった。
言い方が悪いのだが、学院の大老師、国◯師風に言い換えると「主にあって適当に手を抜く技術」という。
何を隠そう、国◯師から受け継いだ伝統ある技術である。
まず、年会などという忙しいことに意義がある雰囲気の中では、「エプロンを着たり脱いだり着たり脱いだり、お湯のみでお茶を、飲んだり洗ったり飲んだり洗ったりしていなさい。」と教えてもらったものだった。
たしかあれは、年会の異常な雰囲気のどこにキリスト者の姿があるのか疑問だ、と質問した時だった。
以来その技を近代的にアレンジして、犬の散歩と言って、学院近くの高速インターでりラックマしてみたり、町中での集会では、すきを見てはマックで遊び呆けていた。
(…いやはや、だからこんなになってしまったのか。)
今となっては、別に何の悪いことでもあるまい。
手を抜く技術は実に重要で、つまらない説教の時間を有効活用してみたり、
搾取的労働時間を、自己投資の時間に転嫁したりと幅広い活用が出来る。
いやこれ、大事よ、ほんと。
最近はスマホという画期的ツールがある。
キンドルで聖書を閲覧していると見せかけて、・・・したり、・・・したりやりたい放題である。
こんな調子だから、しばらくはこれ、公開できないはずだ。