教会会堂はぜひとも必要なのか?

父親の墓の上で説教するウエスレー
父親の墓の上で説教するウエスレー
St Andrew's Churchにあるウエスレーの父親の墓
St Andrew’s Churchにあるウエスレーの父親の墓
数年前に教会が、土地の取得のなんやかんやに関わったことがありました。

最近「会堂建設のタイミング」という記事を読み、思うことがあります。

 

この記事を読む限り、教会の整った形として、「会堂の取得」が重要な目的であり、それまで払ってきたレンタル代、家賃は「ドブに捨てたようなもの」とあります。

 

よく知った関係の間では話題になることですが、「教会堂」って必要なんですかね?

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もちろん、会衆が増えて、色々不都合出てきて、信徒さんの方から「いやもう、お金でもなんでもだすから、建物欲しいです」って声が出て、大方の信徒さんが納得するような状況になれば、自然なことです。

 

でも、時々耳にするのですが、少ない信徒さんの経済状況を逼迫させ、教会生活に大きな不安を抱かせるような状況で、無理に土地建物を建物を獲得する必要はあるのかな、と思うのです。

 

また、牧師が人件費や、スタッフの給与を削って会堂資金へお金を回すことも疑問です。

大きな教会でもやることです。

 

同労者を打ち叩いてまで、土地建物なんて要らないと、私は思います。

土地も建物も、いくらでもあるけど、神さまからの働き人(牧師でも信徒でも)は代わりが無いからです。

育てるのに何年もかかります。

人は盆栽と一緒で、「一品物」。

 

もしも、人件費や、人のケアに充てられるお金を犠牲にして、土地につぎ込むとすれば、そこは「血の地所」になってしまいます。

 

数年前も、土地問題でなんだかんだしていた時に、信徒さんが

「コンクリートに大金つぎ込む時代は終わったのよ」と仰り、同感でした。

 

聖書には、宝を「倉」に入れて保管しようとした人がいなかっただろうか。

宝で「倉」を建てようとして、怒られてなかったか?

 

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建物を建てることが悪いというのではありません。

教会堂は、安心して礼拝を持つために必要だ。

 

でも、何のためなのか、誰のためなのか、負担は効果に見合うのか、それとも逆に高すぎる代価を払うことになっていないのか、考える必要がある。

 

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今、クリスチャンが集まる場所は、日曜日の会堂だけではないと聞きます。

古くは家庭集会に始まり、町中のカフェや、ネット上であったりもする。

 

どこで魂と触れるのか、2人、3人集まる所にイエスさまがいるとすれば、教会はいくつでも持つことが出来る。

高いレンタル代がかかったとしても、集まらない場所に家賃を払うより、集まる場所に費用をかければ、無駄なことではないと思うのです。

 

(勝間和代さんも、持ち家は自由度やライフスタイルからしてデメリットが大きいから、自分は中古の借家に住む、って言ってた。)

 

ウエスレーは、教会を追い出されたので、自分の父親の墓石の上で説教を始めたそうです。

そこに人が集まった。

 

私も、何もないなら野っ原でいいと思います。

皆日傘と雨傘で聞いてくれる。

人が集まらないなら、必要がない説教だし、

集まるなら建物は自然に建っていく。

 

それでも色々と、土地建物に関わる困難はある。

誰のためなのか、なんのためなのか、洗い出されていく価値観が、

関わる人に納得されていく、

 

そんな、過程を丁寧に踏んでいくことが大切ではないかと考えるこの頃です。