「成長」の定義
いやもう・・・本当にすみません。
更新が出来てません。書きたいことは溜まる一方で、集中力がある時間は全部・・・の方に充ててしまい、いつも記事を書いていた夜10時、11時頃には力尽きています。
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先日テレビで景気回復のために、パート・アルバイトの人員が不足している状態だというニュースを見た。
時給をどんなに上げても人が集まらないそうだ。
町の人のコメントで
「高い金払えば、何でもやらせていいというわけではない。」
「時間的、体力的に限界というものはあるので、それを超えるような仕事は出来ない。」
と言っていた。
どー考えても、無理だろう!!という労働量を要求する仕事には、高い時給でも人が集まらなくなっているとのこと。
労働者不足のために、何十という店舗をたたまなければならない企業もあるそうだ。
かつてブラック企業として揶揄されたワタミ、も幾つもの店舗を閉めた。
しかし、ワタミの人事担当者によると、人が集まらないこともあるが、ワタミのこれからの経営方針としてそうしたのだ、と話していた。
これまでは「成長」を、「店舗数」「エリア拡大範囲」で考えていたが、これからはひとつの店舗での「収益率」と「サービスの質」で考えるというのだ。
一つの店舗でお客さんが受けられるサービスの質の向上、それによってお金を落としてもらうということ。それと、店舗を少なくするが、閉じた店舗の従業員を集めて、働く人の雇用環境を改善するという。
「「成長」とは何かということを見直しました。お客様に満足頂けるサービス、そして従業員を大切にし、働きやすい環境を整える。そういった姿勢は必ず、人材確保の面でも魅力となり、働く人を集めることが出来ると考えています。」
と話していた。
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教会でも「成長」という言葉はよく聞く。
内面の成長のみならず、教会の「成長」も。
でも、自分としては、この両者の「成長」の兼ね合いは慎重に考えるべきだと思う。
多分、指している内容も、微妙に違う。聖書から見る定義も変わってくるだろう。
「内面の成長」=「教会の成長」で考えると、教会の勢力が落ちると、自分の献身が徹底されていないのではないか、と考え始める。
どこぞやの巨大カルト集団や、大阪の某教会のように組織が人の上に立って、巨大な会堂建設や、洗礼者数をノルマのように、人に話しをすることが、あなたの徳を積むことになるのだ、とか、救われるために宣教活動しなさいとか、教会活動に貢献することが、立派な信仰者の証しであるとか。
そして、人を目的のための手段か、獲物のように考え、実際には魂と心のケアをないがしろにするという状態になる。
かと言って、この2つを完全に切り離すと、「何もしなくていいのです、神さまの恵の中に座って
、全てを神さまにお任せしましょう。人間的努力を介在させてはなりません。」という枯死まっしぐら、砂漠の修道院状態になる。
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2つの兼ね合いは、もう少し整理して考える必要があるので、また今度にして、「成長」ということから考えてみよう。
かつて、I◯Mが、また、今でも多くの牧師が考える「成長」とは、礼拝出席者と、集会数、教会財政と、洗礼者数、第一種会員数・・・。全県制覇。などなどである。
頭のなかにある基準点は1970年台~80年台の、隆盛時代。
「あの頃は」という言葉で表される。
残念ながら、単純に時間軸上でも、刻々と「あの頃」から遠ざかっている。
教会、教勢という観点からしても「成長」の再定義が必要だったのだ。
今、かつての基準に無理があることは分かっていても、では何を「成長」と考えるのかが見えていない。
平たく言うと、「何を目指しているのか、何が新しい価値観なのか」指標がない。
会社で言うと、戦略がないのである。
無選択状態。
指標は、現時点で社会の人々の心に共感を得られる価値観でなければならない。
私の意見だが、今であれば「家庭生活を大切にすること」であるとか
「ソーシャルな場として、ゆるいターミナル(中継)地点になっている」とか、
なんかそんなことではないかと思う。
家庭生活の時間を大きく侵害する教会生活、
また囲い込むような閉鎖した宗教組織と関係性、
共感は得られないだろう。
聖書ではなく、日本の歴史・文化的影響ではないかと思うのだが、
戦前戦中の「絶対服従、国家目的は個人生活よりも最優先、「出来ません・やりません」なんて言わせない。反対者は国賊」的な雰囲気とか。
結果、人を大切にしない組織風土が出来上がっている。
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内面の成長は、霊的な部分なので、話が違ってきますが、
組織としての成長であれば、何を狙うかで、成果はかなり変わってくると思います。
マネジメントを、人々のために。
戦略を、宣教のために。
使うことができたら。
それが、商業主義だとか、肉的だという二元論ではあまりにつまらない。
全てを使いこなしてやる、という度量の広さが、神さまの中には問題なくあると思うのです。
まだまだ、神さまの世界には面白い裾野が広がっている。
人々を元気に出来る、何かがある。
その中の、まだ輝かない一つですが
教会とマネジメント、
それを支える理論と実践があれば、と願うのです。