信仰によって ―ライオンさんのこと 20

ライオンさんが居なくなってから、1ヶ月が過ぎた。

 

道端にへばりついたトカゲ宜しく、

海の底を漂う魚宜しく、

言葉に綴る力もなく、沈黙を慰めに数週間が過ぎた。

 

葬儀から帰ってきて、1,2週間は悪夢を見続けた。

夜眠れていないから、日中眠くてたまらなかった。

奉仕のミスが続き、風当たりが余計に強くなった。

 

「信仰によって、立ち上がりなさい。

そうでないと、悲しいという感情に押しつぶされてしまいますよ。

ただ、悲しい、悲しいという思いにとどまっていると、

心も、身体も落ち込んでしまいます。

神さまの手の中に、悲しいという思いを委ねて、信仰によって理解するようにするのです。

 

すべて、主が許された手の中にあります。

 

信仰がなかったとか、天国に行けないとか、サタンのせいだとか、人は、色々言うかもしれません。

でも、そういうことは、人間の見方だと思います。

 

神さまは、私達が思うようには、されません。

もっと、大きな意味があり、何かがあるのです。

 

信仰によって、捉えなさい。」

 

葬儀の日から、2週間位の時に、いつも相談しているK師からの言葉。

 

信仰によって、捉える、とは、

全てが「主のご訓練である」とか

「すべて良いことに変えて下さる」とか、うっかりすればとんでもない誤解を招くようなことではないと思う。

 

例えば今回のことを、「主が許された」というのは、

私達が言葉として捉えている意味以上の、深い意味において、「許された」のだと思う。

 

「許された」の中には、その後を生きる我々の様子にまで目を配る神様の愛があり、

私達が知り得ない事が、きっと天国まで隠されている何かが、あるのだと思う。

 

信仰によって、悲しみを理解するというのは、

人生の中に起きる諸々の「理不尽」を理解するというのは、

勢い宜しく、自分は悲しんでいないということをアピールしたり、

神は最善だ、と強調したりすることではないと思う。

 

勿論、それも1つの信仰であると思うけれども、

何も全員がそうでなければいけないというわけではない。

 

別に我々が強調しなくたって、神様は神様なわけだし、何一つ欠落するわけでもない。

ただ、我々は、どうして、と思う。

 

主が生きたもうならば、なぜこんなことが起きるのか。

なぜ、こんなことを「許される」のか。

 

そして、その理由付けは常に失敗する。

 

ただ、答えがあるとするならば、その後を生きる人々の姿に、無言の力がある。

気持ちの悪い証より、黙って生きるその姿のほうが、私には尊く見える。

 

そしていつか、何かが分かる時があり、

痛みが、誰かの苦しみを共に担える力に変えられる。

 

信仰によって、

信仰によって。

 

主の御手の中に、

分からないことは置いておこうと思う。