システムが作る人間性
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読みながら、自分よりもはるかにまともでない世界を垣間見る。
アウシュビッツを見て、自分はずいぶんとマシだ、などと思う心理状態の自分は大丈夫なのだろうか。
昨日に引き続き、システムのことに思いを馳せていた。
『夜と霧』の中の強制収容所の記述で、繰り返し行われる囚人への虐待の数々。
それは、肉体だけではなく、精神と心、人間の尊厳を踏みにじることを目的としている。
囚人は身ぐるみ剥がされ、何一つ所有出来ず、名前すらも奪われて、ただの番号になる。
監視のナチス兵士からは常に「豚」と呼ばれ、打ち叩かれ、存在価値がない人間だということを叩きこまれる。
体中の毛を剃られ、不衛生な状態に追いやられ、憎しみと搾取の対象となり、始終小突き回され、死ねば山と積まれて焼かれ、その油は着火剤に、皮はランプに、毛髪は繊維に使われて…そう全く動物と同様にせられて、人間であるということの尊厳を地に踏みにじられる。
人間の精神が、このような状態でどうなっていくのか、何が起こったのか、克明な記述が続く。
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こんな下りで書き続けるのは何だが、環境が人格に与える影響というのは計り知れない。
「豚」と呼ばれて悪しざまに扱われれば、人はそのような生き方を身につけてしまう。
先日の話の続きで考えてみたが、システム…がそこに所属する人間の人格を形成していく。
必ず影響されるわけでは無いにしても、何らかの効果を発する。
例えば、従うことを第一の目的としている教育方法、システムの下では、どんな人間が育つだろうか。
良い面としては、上の命令に忠実な人員が育つ。
従順で、反抗しない、結束力の高い集団が出来上がる。
しかし、反対の面としては、考えない人間が育つ。
下手に考えると、疑問を持つ。しかし、反対しても評価を得られないので、考えなくなる。
そして、主体性のない人間になる。
創造性やオリジナリティの能力は、受け入れられないばかりか、時には非難されるため、制限される。
これが集団になると、維持するのは得意だけれども、目新しいものは生まれない(閉塞感漂う)ということになる。
このような教育を受けた牧師たちが、各地域で同じように信徒を指導し教会を形成する。
そして、同じような文化の中で、同じような人が育つ。
現在、人不足のため各地方の教会で自発的に行動して、緊急事態に備えること、とか、自立することが求められている。
それに対して、どうしていいのかわからない、という声も聞く。
若者の働きのことも聞く。
従来の教育や人材育成の価値観の中で生きてきた側からすれば、戸惑う話である。
…従うことに重きをおきながら、自発性を促すというのは、矛盾極まりない。
中央からすれば、自立できない困った教会、なのだろうが、「従ってきた」教会からすれば、状況次第で方針が変わり、いきなり叱責されて困惑するという結果になる。
これから、「盲従」は武器にならない。
大体、従う、ってことを、もう少し丁寧に考える必要がある。
誰に従うのか、何に従うのか、本当に「従う」ということは、どういうことなのか、聖書の中の従属関係を良く観察して見る必要がある。
それは、軍隊式でもないだろうし、侮るような関係でもない。
さておき、各人、各教会の自立した働きを願うならば、システムも変えていかなければならない。
ネットやホームページを整えても、若い人が来ても、
組織の仕組みや、牧師の価値観、教会の中身がそのままなら…。
意味することはこうである。
「効果は欲しい。我々は変わりたくないが。
協力者を求める。ただし、我々の価値観で。」
システムに投影されている無言の従属関係の下、末端だけで都合の良い人材を確保しようとしたり、問題に対処したりしようという対応は、焼け石に水である。
創造性、応用力、責任感、当事者意識、そういったものを身に付けた人材を育成したいのなら、
これらのことが評価される神学校教育であり、教区会、教団であり、そして教会運営による信徒さんの教育が必要である