聖書の中のシステム

組織形成、ということから考えれば、聖書に基づかねばならない。
なんたって、教会なのだから。
そして、我々はキリスト教徒だから、聖書の中に最善の型が記されている、と信じる。
学術的には、まったく受け入れられない前提だとしても、信仰のゆえに、聖書に基づくマネジメント論は一級の学術研究に劣らない効果を生み出すと信じている。
マネジメントだなんて、そんな商業臭いことを、教会に持ち込むなんて、という意見は、人々の心に起こる第一の心理的抵抗である。
この抵抗感についても、丁寧に考えていく必要があると思う。
それは別の機会にして、組織論、システム論的な視点から見ると、聖書にその記述が無いわけではない。
むしろ沢山あるといった方がいい。
モーセの指導方法、レビ記などに見る神権政治、師士記の地方権力の分立状態、サムエル記に見る王政の始まり…。異邦人や、貧しい者、奴隷、金融システムについては、もっと色々な所で関係する記述を見ることが出来る。
そういう記事の流れを見ながら、神様の思いがどこにあるのかという断片を見ることが出来るのではないかと考えている。
でも、そういったことを考えるにしても、まだ個人的な感覚だけれども、神様はあまり「システマティック(組織的)」なことは好いておられないような気がするのである。
神様が地上に来られて、模範として示されたのはキリストであり、キリストは組織なんてことには、全く関心がないように見える。実際、そうだったんじゃないかと思う。
むしろ人々が、社会構造が生み出す様々な意味での「貧しさ」の犠牲になることを嘆いておられるように思う。
だからといって、「組織」が悪い、などとなると無教会派?みたいなことにもなりかねないとも思うし(無教会派が生まれた理由も理解できますが)、果たしてシステムを持たないグループが、社会の中で有効な発言権を持っていけるか、というのも分からない。
使徒の働きの時代になると、明らかに教会としてのシステムが形成され始めているし、宣教の働きの必要性として、何らかの仕組みが必要だというのが聖霊の働きではあると思う。
話を戻して、キリストのやり方、だが、キリストは人々を統制することよりも、一人の人をケアすることを優先させているように思う。
組織の理想的な型は、「羊飼いと羊」実にシンプルである。
だから、教会の仕組みを考えるとき、「1人に届く距離」、そして「シンプルさ」を継続・実現することが、組織としての教会ではないかと思う。
群れが巨大化しても、
牧師が1人に届くことが出来るように計らうのが、マネジメントの役割であり、
羊が組織運営に短い距離で声を届けることが出来ることが、群れの安定した関係性を築く鍵ではないかと思う。
その他、キリストの例え話にも沢山のヒントが隠されている。
何も目新しいことではないのだが、「身体と各器官」の例え話からは、互いに相手の役割を裁き合わないことや多様性の大切さを知ることが出来る。
でも、実際は排他的で、同じ価値基準に当てはまらなければ非難される教会もある。
組織論の視点から、聖書を見ていく、とまだまだ面白いことが分かりそうである。