教会における「ハラスメント」―組織の健康

この項目は、いつか「組織の健康」カテゴリーでもう少し拡充させたい。

 

TEDの記事もまだだし…うぅ。

 

日本における教会(教団)の多くは、閉鎖的なコミュネティであり、独特の理論がまかり通る。

 

もう少し社会に受け入れられており、公共の視点があれば、風通しが良くなると思うのだが、

某柔道や相撲協会のように、関係者だけで作られてきた力関係が大きく影響しているのだ。

 

私は今、モラル・ハラスメントについて本を読んでいるが、著者はこれを「精神的な見えない暴力」更には、「魂の殺人」だと主張している。

 

セクハラ、モラハラ、パワハラ…かつては、それが「社会」とされてきた精神的な嫌がらせが、犯罪として認知されているのだ。

教会とて、例外ではないし、新聞沙汰スレスレの心理的暴力事件は今でもまかり通っていると思う。

 

現在の任地に移動の前に、ある方から、

「巻物になりそうな、A教会の実態を、いつか本にでもすればいいよ。」と言われた。

 

立場がある間は、色々と内部事情を発信するのは、良心にとがめたり、プライバシーもあるから、なんだかんだと考えてしまうが、多分これまでの人も同じような気持ちで、ただ暗澹と耐えてきたのだろう。

そして、教会で傷ついている人たちも、そうしてただ涙を飲むか、黙って去っていったのだろう。

 

既にカトリック教会では、多くの性的な嫌がらせが露見して、深刻な問題になっている。

でも、きっとそれは本当に氷山の一角に過ぎない。

 

果たして、誰かが命を散らすまで、我々は黙っていなければならないのだろうか。

 

本当は、教会ならなおさらのこと、もっと早い段階で内側に光が照らされ気づかなければならない問題だ。

しかし、それが宗教独特の閉鎖性のゆえに、隠蔽されてしまうとは皮肉なことである。

 

そこで今、書ける範囲を書いてみようと思う。

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自分が受けたもの

 

* 直接的なコミュニケーションを避ける  牧師⇒同労者、信徒

モラハラの典型的な攻撃手段。相手の存在を認めず、無言の圧力で相手の価値を貶め、優位に立とうとする。

 

* 仕事に期限を定め、失敗に対して厳しく非難し大きなプレッシャーを与える

相手を追い詰め、ミスを誘発させたり、怒りを引き起こすことで、孤立させる。

モラハラ加害者は責任逃れの天才なので、自分の手を汚さないようにして、ターゲットを追い詰めて破壊する。

 

* 休みを与えない、低給与、自由を与えない、などして、逃げる力、考える力を奪う。

宗教だと、「それが献身だ」などという理由がつくので、たちが悪い。

 

* 絶対に評価しない

失敗は攻め立てるが、出来たものは当たり前。モラハラ加害者には、根本的に「感謝」や「思いやり」というものはない。だから、「ありがとう」と「ごめんなさい」は、言えない言わない。

 

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聞いたもの

 

* 相手の優しさや忍耐を利用して、支配しようとする。

相手に罪責感を与えて、自分の支配を認めさせようとするのがモラハラの常套手段。

小さな失敗や、無自覚の過失を攻め立てて、何時間も「指導」と称して説教する。

その他にも、

 

*  挨拶しない、等の無視

*  意見をことごとく認めない、反対する

*  活躍する信徒をライバル視して、様々な嫌がらせを行う。

*  相手が知らないルールや、信条を持ちだして、非難する。そうして恐怖心を植え付ける。

*  お祈りや書いたものに対して、ケチをつけて、相手の信仰に自分の発言権を挟む。

 

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聖職者は神の代理人、という権威を傘にきて、権力を濫用する。

それが他者の心を傷つけている、とは気が付いていないかも知れない。

神に対する?、または作り上げてきた秩序に対する熱心さから、精神的な暴力を正当化さえするだろう。

 

信徒は、神さまへの献身の気持ちを込めて、牧者の指導に従おうとするのだが、そこで様々なトラブルが起き、傷つくのである。

 

聖書には、「悪い牧者」についての言及がある。

「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。──【主】の御告げ──」

「…見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。──【主】の御告げ──」

エレミヤ23:1,2

 

「自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

あなたがたは… 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

…わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。…わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」エゼ34:2-5、10

家族との関係を破壊したり、個人財産を脅かしたり、時間や自由、交友関係など、通常の社会生活に大きなストレスを与えたりするような教えも、見えない支配、ひどい場合は暴力ではないかと思う。

 

何が聖書的な教育で、どこからが逸脱しているのか、見極めは難しいと思うが、看過されてはいけない問題ではないだろうか。

 

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こういう問題となると、なかなかジャンルが少ないですが、パスカル・ズィヴィーの『信仰という名の虐待』は小冊子ほどの分量ですが名書です。

なんと、つい最近まで品薄で入手しにくかったですが、キンドルバージョンが発売されました。

価格も手頃ですので、興味のあられる方は是非ご一読下さい。


関係書籍があったら、またご紹介いたします…。