他者が居なくなるマインド

宗教が有する危険性の一つがこれだと思う。

聖戦、とか、クルセードとか、救霊戦とかいうのは、もはや他者を自由意志を持った一人格としてみていない。

他者は、汚れており、サタンであり、救われれるべき哀れな罪人、もしくは地上から取り去られてしかるべき存在、すなわち自分たちの聖なる戦いの「獲物」である。

相手の都合とか、好みとか、人生とか家族とか、よもや苦しみや悲しみということは考えない。

相手は私達が助けてあげなければいけない対象、であり、自分のことも自分でわかっていないのだから、子供のように判断能力を制限されてしかるべきものだと考えている。

本来、自分と他者は別であり、他者を尊敬するというのは、社会生活を送っていたら自然に身につくものであるが、宗教はこれを破壊、他者を自分の延長のように再教育?する要素がある。

自分が改宗したように、あなたもそうするべきだ、という

こういった精神が、聖書の教えによって発生するとは思えない。

聖書は謙遜と、柔和を教えている。

それでも、宗教に寄って、あたかも選民意識のような考えが形成されるというのは、教えによってではなく、人間の弱さによってではないかと思う。