努力の限界地点で神に出会う

神を信じる、とは自分が完全でないことを認めるということではないだろうか。

自分の人生は、自分の努力は不完全であり、この不完全な私には神の助けが必要だということを、受け入れることではないかと。

 

私達が清く、完全であることを神は望まれるが、その「完全」は人が思う「完璧主義」ではない。

そして、「一生懸命」でもないと思う。

 

努力すれば何でもいい、というわけではなく、私達は神の望まれる世界の中を歩まなければならない。

 

神にとって、人の「完璧」ほど、それを鼻にかけて歩いている人間ほど、気持ちの悪いものはないのではないか。

 

神殿で祈るパリサイ人と、取税人の例えが示しているように。

 

完全を目指し、完全の限界で神に出会う。

 

完璧主義は度が過ぎると、自らの不完全さから目を覆い続ける。

不完全とは、すなわち落伍者であり、失格であり、神に受け入れられないことだと思っているから。

きっと、成長の過程で、失敗を受け入れてもらったことがないのだろう。

 

不完全さを受け入れられないまま、完全を目指し続ける。

 

神は、不完全を受け入れてくださるのだろうか、そうでないのだろうか。

 

「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」 詩篇130:3,4節