「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」 -「群れ」であることの方向性
まだ寒いけど、朝起きたら日差しがとても明るく感じた。
春遠からじ、フムフム。
英語の勉強が一段落したら、本読みたいし、まとめたい記事あるし…楽しみだね。
先日、何気なく立ち寄ったサイトで、そこの方が書いていた「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の観点が面白かった。
参照ページはこちら⇒プレジデント社経済ニュース「なぜフェイスブックのつながりは役立たずなのか」
「社会学では、社会集団のあり方を「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」に分けて考えます。前者は地縁や血縁など自然発生的に集まった人たち、後者はある目的を達成するために集まった人たちです。これまでの日本社会ではゲマインシャフト的な組織が優勢でした。日本では会社組織すらその代表例です。同質な人たちが、決められた方向に、一斉に走っていく。そこでは「会社縁」ともいえる社会集団が形成されます。
ところが、グローバル資本主義の進展で、それでは成長が望めなくなりました。そこで重要になるのが、ゲゼルシャフト的な組織、すなわち目的志向型の組織です。会社組織のなかでも、ビジネスの変化にあわせて、多様な人材を束ねたチームで仕事をすることが増えつつあります。自然発生的に集まった「なあなあ」の関係のゲマインシャフト的な集団を、目的がきちんとあるゲゼルシャフト的な集団へ転換していくことが求められています。
あなたがゲマインシャフト的な人脈しかもっていない場合、「同調圧力」によって成長機会を失ってしまう恐れがあります。」
集団には、目には見えないが文化というものが確かにある。
「ゲマインシャフト」的な集団では、集団の構成員が同じように考え、同じ嗜好、同じ基準、同じルールで考え行動することが求められる。
同質化への圧力が非常に強い。
日本の教会というのは、「ゲマインシャフト」か「ゲゼルシャフト」かという観点で考えれば、「ゲマインシャフト」的な色彩が非常に強いのではないかと思う。
「ゲマインシャフト」は地縁・血縁に基づく集合体である。
すなわち、構成員はそこにいるだけで、そこに生まれただけで、一体化するべき存在として考えられるのである。
個々人が何を考え、何をし、何を目指しているのか、ということは問題ではない。
大切なのは、「同じ」になることである。
同質化が促進されることにより、集団に秩序と安定が期待される。
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しかし、違う要素を持つ個々人でも、群れを形成することが出来るとしたらどうだろう。
集団というものは必ずしも…同じ要素を持つ必要は無いとしたら?
単一民族国家と、多民族国家の違いである。
単一民族国家である日本人にとって、眼の色肌の色、食べ物、着るもの、宗教が違う人達と、同じ国民である、と考えるのは非常に難しい。
しかし、移民国家のアメリカやフランスは、価値観を以って一つの国家として成立している。
もちろん、多民族国家では民族紛争などの問題は非常に深刻になるというデメリットがある。
それだけに、常に「~国民」であるというのはどういうことか調整し続けなければならない。
皮膚や目の色、服装、習慣、文化で判断できないのだから。
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聖書から考えれば、イスラエル、ユダヤ人はというのは、幾度も異文化に接触し混合している。
アブラムは中東の出であるし、出エジプトの時にはどうやらユダヤ人以外の人たちも混じって出てきたようだ。カナンの異民族との混血、モアブ人やサマリヤ人、エサウの流れをくむ民族、色々なユダヤ系の流れをくむ一族が派生している。
キリストの系図にユダヤ人たちの考える「異邦人(モアブ人)」が含まれているのは、多様な人々に神が目を止めておられる恵みとして考えられているのではなかっただろうか。
全ての異邦人への宣教が始められたことからして、キリスト者であるという「統合性」は血縁や国籍や服装、文化に拠っているのではない。むしろ神の恵みは、すべての文化、国民に提供されているから「福音」と呼ぶ、そういう前提のはずである。
だから、元々教会というのは、異文化混合コミュニティなのである。
神が願われた方向性は、ユダヤ人が形成する「純血主義」的な群れではなく、キリストで一致した多元集団=目的志向の「ゲゼルシャフト」集団である。
聖書にある通り「頭なるキリスト」で一致しているのであり、諸々の決まりや文化ではない。
もしも、教会の中で「ゲマインシャフト」的同質化が進められれば、本来の方向性と逆行することであり、伝道力・伝播力が大きく損なわれることになる。
教会の「豊かさ」とは、どれだけ多元性を維持しているかにかかっているのではないだろうか。
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教会は元々、多様性を前提に広がってきた、という歴史的事実がありながら、
いざ日常の教会生活を考えると、特定の一派のルールや価値観を沢山身に付けて、その中で生きることが「キリスト教徒」だと、独善的になりがちである。
実際の例を挙げよう。
私は現在の教会では、とてつもない同化圧力を感じる。
神学院レベルの。
圧力とは以下の様な点である
* 「ふさわしいとされる価値観」を身につけること。
従え-とか。
* 多くの時間と労力を、教会の活動に費やすことが良いとされる(効率は度外視)。
* 同じ行動を同じようにすること。
* 異なる意見は「不服従」「自己中心」「自己が死んでいない」とみなされること。
* 絶えず事細かな注意をあちらこちらから受けること。
立ち振舞とか、奉仕とか、服装とか、やり方とか。
* 彼らの価値観・文化に「完全に一致すること」が求められること。
私は、派遣されたところでは、そこの教会のやり方や文化を尊重するようにしている。
それであるにしても、こういった強力な「ゲマインシャフト」的同化圧力をかけてくる集団はシンドイ。
個々人の生き方への執拗な関与が同質化集団のやり方である。
でも、こんな労力って、彼らにとっては意味あるんだろうけど、神の国にとって何か意味あるのかな?
他者にとっては?
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「群れ」であるために、方法は一つではない。
同化を求める「ゲマインシャフト」で群れを形成することも出来るし、
目的重視で外向きの「ゲゼルシャフト」の方法もある。
ちょっと考えてみた。
「ゲマインシャフト」的集団形成
* 同じ生活様式を求める-服装、食べ物、嗜好性。
* 同じ場所で時間を共有することが求められる。
* 外部との接触は評価されない。
* 教会を中心にした生活設計をするように求める。-集会出席、休日の過ごし方。
* 評価されるポイント、強力な「あるべき姿」がある。
* 絶えずお互いに監視されている感がある。
* 集団行動への参加が推奨される。
* 自立や、個人行動は推奨されない、教育されない。
* 伝道とは、伝道会への出席と、聖書の知識を伝達することである。
「ゲゼルシャフト」的集団形成
* ルールは出来るだけ少なくする。
* 時間は長さよりも質重視。
* 個人生活、家族との時間、プライベートを大切にする。牧師も信徒も。
* 礼拝を持つ場所、教派、時間は個々人の状況と裁量に任せる。
* 自分で考えて行動するように教育される。
* 伝道は教会活動の中ではなく、社会の中で行うことを教えられる。
-社会での具体的な貢献を考えるように促される
* 個々人に違う使命があるため、理想像は人ではなくキリストである。
* 人格的成長に対する自己吟味と洞察を求められる。-他者への奉仕に力点があるため
書いていて思ったのだけども、日頃聞いているアンディー・スタリーの教会形成の様子を見て考えた部分が多い。
それぞれに、いい面も悪い面もある。
「ゲマインシャフト」型は、創造性に欠けるけども、群れとしての団結力はある。
「ゲゼルシャフト」型は、うまく機能すればよいが、やもすると個人主義的で全く教会に対して協力しない、ということにもなる。
「ゲマインシャフト」のほうが、外的な力に頼っているので、人間的には把握しやすいし容易な方法である。
「ゲゼルシャフト」型は、個々人の自由意志を信頼した上で、教育しなければならないので難しい。相当の自信を持つ必要がある。
出来ることなら、縛り付けるようなやり方ではなく、自由意志で集まってきてくれるような、牧会をしたいものである。