社畜クリスチャンに告ぐ -社畜クリスチャン1
【社 畜(しゃちく)】
「社畜(しゃちく)とは、主に日本で、勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷(家畜)と化したサラリーマンの状態を揶揄したものである。」 2015年1月30日ウィキペディア「社畜」の項。
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今日は、区役所へ国民健康保険料還付請求手続きに行きました。
分かりやすく言いますと、前年度の給与所得から保険料総額が算出されるのですが、昨年度と、今年の給与の差が大きすぎるため、支払われる給与に対して、高い割合の保険料を払うことになります。
転職された方にはお馴染みの現象です。
少なくなった給与に対し、差し引かれ過ぎた保険料を返してもらうための手続きです。
昨年度、私が貰った給与所得総額は23万円でした(源泉徴収票によると)。
一月ではありません。
ほぼ一年です!!
所得総額から、税金を引いた、即ち手取り総額です。
一月平均に換算してみましょう。
一月約1万9千円です。
因みにこれから月定献金を8千円出していました。
集会その他の献金で、月1万円にはなっていたでしょう。
=毎月生活費9千円です。
この中から、食費、雑費、医療費、すべてを工面するというわけです。
どうやってこれでここまで生活できてきたのか、まったく不思議なほどです!!
実際的には、手取り給与だけで生活しているわけではありません。
多方面からの継続した支援があり、折々に頂いた支えがあったので、ひもじいなぁ、と思うこともなく、一年を乗り越えることが出来た訳です。
また、前任地の教会で手厚くして頂いていましたし、何とか貯めていた分もあったので、今年一年乗り切ることが出来ました。
本当に支援下さっている方々、下さった方々に、心から感謝いたしますm(__)m。
有難うございます!!!
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振り返れば昨年5月、現在の教会と、給与、その他の待遇に対しての話し合いがあった時に、あまりの悪待遇ぶりに正面から抗議したことが昨日のようです。
その時点で、もう今年限りということは念頭にあったので、何も言わないでいれば穏便に済む話なのですが、現教会の金銭面の悪い噂と、困窮している、かつての副牧師の先生方の話を聞いていたので、「どこかで気づいてくださいよね?」というつもりで異議申し立てたわけです。
事前に教会総会資料も手に入れていたので、人件費にどれ位取っているかが分かっていました。
その額から逆算すると、主任だけで全体の7割。
副牧師は3名で各々1割弱です。
大まかな数字を出すと、人件費年間予算900万に対し、主任だけで約500万。
後が各々約120万×3です。
副牧師のうち一人は牧師夫人なので、主任夫妻だけで約620万です。
月々主任夫妻で51万、副牧師が8万という訳です。
年をとったかつての副牧師が引っ越す費用もなく困窮し、年金を納めておらず、少しの貯金もなく、教団のお世話になっている。まだ若い牧師は、過労死寸前になったり、精神病になったり、あまりのことに耐えかねて、脱走したりしている。
歴代の副牧師たちの怒りを代弁してあげてもいいかしらん、と思ったことであります。
「月8万では生活出来ません。」との申し立てに対し、返ってきた言葉は、
「そんなことを言っていたら、もっと苦しい教会に行った時どうするのか。
ここは恵まれているほうだ!」ということでした。
「苦しい教会があることは承知しています。しかし、戦後の時代と、2014年の現代では、生活水準が違います。」
というようなことがあり、スタート地点から逆風生活が始まったわけです(*´∀`*)バカデーイ。
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金銭面のことを言ったら、伝道など成り立たない、という意見が圧倒的かも知れません。
糊口に糊してなんぼの世界、でしょうか。
聖書に見る使徒も、宣教師たちも苦しい思いをしてきたから、貧しさは伝道にいつもつきまとってきたものでしょう。
でも、貧しいのが当たり前、的に人を劣悪な労働環境下で働かせるなんて、運営の怠慢です。
私はそう考えます。
実際には、これまで改善するチャンスは多くあったのにもかかわらず、各教会の独自性や、親族関係や、少数のトップの先生の利害関係によって、一部の人達に都合のいいシステムが出来上がっている。
そういった、改善努力の欠如が、全体の士気を低下させ、若い人たちの離職や疾病を招き、献身者不足を招いているのではないでしょうか。
牧師が低すぎる生活水準に甘んじることの弊害、を別の所で考えたいと思います。
高すぎる生活水準、というのはあまり日本では考えられませんが、そういう牧師は、多分神の裁きを知らないお天気な方です。存分に苦しんで頂きましょう(関連記事⇒マネーボックス)。
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社畜(しゃちく)とは…、社畜クリスチャンとは、所属している宗教団体に飼い慣らされてしまい自分の自由と自信を放棄したクリスチャンである。
牧師・信徒を問わず、この様な状態の方々は多いのではないでしょうか。
自我・罪の否定とともに、判断すること、自由意志を否定され、自信を取り去られる。
神の意志に従うことと、組織の奴隷になることが一緒くたになってしまう。
ぐだぐだと書き連ねたわけですが、このような状況に対して、シャッチーな私はどうしたら良いでしょうか。
私は脱社畜しようと決心しました。
長時間労働、自由なし、薄給、組織の言いなり、一生涯?
そんな生涯に希望も目的も持てません。