聖書社畜伝 -社畜クリスチャン3

書くと言って、なかなか書かないのは、毎度のことさ。
(ダメでしょっ( ゚д゚))
さて、書いてみましょう聖書社畜伝。
現代版『蟹工船』もしくは『女工哀史』書けちゃうんじゃないかという環境で働く宗教関係者なのだが、その先にある希望を信じて歩くことができるから、今日ここにあるわけなのである。
いかなる時代にも、割にあわない労働というものはある。
一部のグループ、もしくは個人が恩恵を専有し、誰かは生まれる前から、社会の底辺に位置づけられている。
もがいてももがいても生涯、貧しさ、混乱、悲劇から抜け出すことが出来ない。
スタートラインが違う。
そういう「見えない前提」が、あらゆる組織の中にあり、我々を失望させる。
しかし神の愛は、全ての人に与えられ、そして、世界に満ちているあらゆる暴力、支配、閉塞感を打ち破る希望を与えられる。
神はあらゆる階層から人々選び出される。
暗闇の秩序を打ち壊すために。
現代に生まれる我々の多くは、きっとこう思うんではないかと思う。
大きなことは望まない、人並みに生きて、与えられた幸せを大切にすることが出来たら、それでいい、家族や、大切にする人たちに囲まれて、互いに愛し合って生きていれたらそれでいい、と。
そう思って、色々と努力するわけなのだが、積み上げても積み上げても、思うほどのことは積み上がっていかない。
人間関係も、仕事の成果も、社会的なステイタスも。
時間と、若さは無益に浪費され、慰め程度の報酬と、冷酷な評価を受け取る。
何も積み上がっていかない。
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でも、聖書を開いてみれば、聖書に出てくる人物たちは年齢と正比例した安定を得ているわけではない。
モーセは豊かさの中に育てられ、荒野に出て、ほそぼそと羊飼いをしていた。
ヤコブはラバンのもとで、妻のラケルを正式に得るために、14年の奉公。余り良い待遇ではなさそう。
ヨセフは、豊かな才能に恵まれながら、エジプトの牢屋で若い日の殆どを過ごした。
ヨブは一晩で身ぐるみ剥がされて無一物。
ダビデは国の将軍に抜擢されながら、10年近く荒野で逃亡生活。
キリストも、ほとんどの生涯を大工のイエス、として過ごされた。
その中で、積み上がったものなんて!
どこにありますの。
ヤコブの例を見てみよう。
父イサクの元を出て、叔父ラバンのもとで働いたヤコブ。
何だかんだでラバンの娘2人を娶るために14年働いた。
ラバンとヤコブのやりとりをずっと見ていると、どうも難しいヤコブの立ち位置が伺える。
初めは寄る辺が無い状態でやってきた甥っ子を、引き受けたような状態だったのだろう。
しかし、ヤコブが成長するにつれて、仕事を任せられる、妻を娶る、子どもが生まれる、それなりに一人前になってくる。
ヤコブとラバンの間では、何度も報酬の話が交わされている。
1回目 初めの頃
「 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。
…こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」
… ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言った。
… ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」創世記29:13~20
2回目 自立を願った時
「ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。
私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」
ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、【主】が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」
さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」
ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。
私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で【主】があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」」創世記30:25~30
ラバンの財産は、神の祝福を伴ったヤコブの働きによって豊かになったことが示唆されている。
しかし、ヤコブはそれに見合った(と本人が思う)待遇を受けていなかった。
彼は依然として丁稚奉公状態で、ラバンの家のために働いていた。
「 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。
私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。
後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」」創世記30:32~33
引き止めを図るラバンにヤコブは上のような条件を出す。
「盗んだと言われれないために」という伏線を張るヤコブ。
ずる賢い(?)知恵が働くヤコブならではの対策だが、裏返して言えば、ラバンの狡さを長年の付き合いで見抜いていたからだろう。
レアとラケルの事件からして、ラバンの狡さは現れていた。
3回目 故郷へ帰る時
「 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。
ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。
主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」
そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、
彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。
あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。
それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。」創31:1~7
ヤコブが懸念したことはそのまま現実となってしまい、ヤコブはラバンの財産を盗んだ、と言われるようになった。
わざわざ、ぶちとまだらのヤギを分けたのだが、それも意味をなさなかった。
ヤコブが一生懸命働き増やした家畜・財産は残念ながらラバンの強欲さを助長させ、ヤコブに対する妬みや恐怖を助長させた。
「あなたががたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。」というヤコブの言葉に、長年のラバンとの間に生まれた確執が伺える。
ずるい賢いヤコブだったが、世の中にはもっととんでもない人が居たもんだ、というとこだろうか。
こうして彼は生まれ故郷へ帰ることになる。
ヤコブがこの時点で得ていたことに目を留めると、
■ 長年の労働の結果
→お世話になった叔父一家との関係が終焉。
→努力の結果を泥棒呼ばわり。
→散々な労働環境の中で苦しんだ。という事になる。
割にあわない長時間労働、会社や組織からのひどい扱い、欲の皮の突っ張った上司、
浪費されるだけの若さと時間、牢獄のように抜けだすことが出来ない環境。
聖書にはこんな人達が沢山出てくる。
そして現代の多くの若者も、人々も、こんな環境で働いている。
でも、神さまの前にあって、この積み上がっていない時が無駄でないことを知っている。
信仰によって、人生は正比例でなくても、意味がある時間が紡がれていることを知っている。
むしろ、苦しみの中にあるときこそ、いつもは学べない何かを学んでおり、必ず自分の中の何かが研ぎ澄まされていることを信じている。
だから、冷たい風も、身を切るような寒さも、ひどい言葉も仕打ちも耐え忍ぶ。
屈辱的な扱いも、横暴な権力に従うことも、無益と思える仕事にも、打ちひしがれない。
牢獄の中の社畜でも、神さまの御守りが常に共にあることを忘れない。
荒野の中でも、牢屋の中でも、
貧しさの中でも、低い身分の中でも、人種や皮膚の色、性別、立場が弱くても、神に与えられている光を消すことは出来ない。
環境に負けない。
絶対に、逃げ出してみせる、変えてみせる。
そのために、私達は光を持っているのではないか。
心が痛んでいるのではないか。
まさか、牢獄で泣くためではなかろうよ。