カルト教会の運営を手伝わなければならなかった自分

バカみたいな汚れ仕事をしながら、考える。

頭の中で、どうすればよいのか。

何で、神についていこうとして、逆に良心に痛みを覚えるような仕事をしなければならないのか。

 

それも教会で。

 

荒野の強盗集団に成り下がっていたダビデはどう思っていたのだろう。

 

将来に神の約束を与えられながら、かつての敵の庇護を受け、異邦の民とはいえ、弱い一般民衆の村々を襲い、略奪で生計を立てたダビデは。

一つ間違えれば、同士討ちになりかねない戦争に加担していったダビデは、どう思っていただろう。

列王・歴代誌には、あまり、その頃のダビデの様子は書いてない。

でも、詩篇の多くは、きっと荒野を逃げまわり、精神的な苦悩が多かった時代に作られたものだろう。

詩篇に多く出てくる、敵とか、涙とか、苦悩とか叫び、とかいう表現は、その頃の苦しみを表しているのだろう。

マタイは、どう思っていたのだろう。

ローマの犬、と言われながら、同胞から税金を取り立てていた。

彼も人間で、心のなかは痛みで一杯だった。

ひどく孤独で、汚れた気持ち。

血を流しすぎた、と言われたダビデの人生から、虐殺の記録は消えなかった。

やってきた仕事の事実は消えない。

取り立てた税金の重さも、良心の痛みも。

それでなお、神についていった人たちの物語なのだけど、

どうしてそれが神についていく者達に必要なのか、分からない。

ただ、それが世の中を生きる人達の痛みだと思えば、

私達は、決して潔癖に生きることなど出来ないのだと、

悲しいほどの絶望を味わう。