人を犠牲にして成り立つ宗教組織

私の家の宗教は神道でしたが、なんだかんだで、自分はキリスト教になりました。

偶像礼拝はいけないと、教会や神学校で教わりました。

でも、今の教会では人を神と崇めているような、第三者から見たら偶像礼拝チックなことを沢山しています。

不透明な会計や、問題が多くしている集金システムを自分が支えなくてはいけません。

そこから給与をもらい、来ないほうがいいと思う教会のためにチラシを配り、該当で路傍案内をし、自分の能力やスキルを使わなくてはいけません。

私は、理想が生きていると思った、キリスト教会でこんな仕事をすることになったのです。

それなりに努力し、貢献してきたつもりが、結果は散々に疎まれることの連続でした。

自分が、悪いことをしているのか、良いことをしているのか、分かりません。

むしろ、良心に咎めてなりません。

異教の家から出てきた人間が、キリスト教世界でどっぷり生きている人々の集団で、この様な扱いを受けることになるのです。

外部の人間から見れば、彼らは彼らの利権の中に浸かり、大変な仕事が外側からやってきた人々に割り当てられます。

教団の中で、ノンクリスチャンホーム出身者と、クリスチャンホーム出身者で待遇が異なるという不満を聞いたことがあると思います。

クリスチャンホームの出身の人も、知ればそれなりに苦労が多いので、私は不公平とは、あまり思いませんが、それでも、外部から来た人間にはこれくらいの断絶が感じられるということです。

教会にやってきた一般の人々もそうです。

教会生活が長くなると、教会に居る一族と、背景のない自分との発言権や待遇の違いに気がつくようになるのです。

例え役員級になっても、有力一族の先住民意識を前に対立が深刻化し、結局失望して去ることもあります。

日本の教会は、そういう意味でオープンではないし、公共的なところでもありません。

教会が、もっと、多くの人にとって共有できる場、広い意味での「家」となるためには、新しい人が心よく迎え入れられ、発言権を持てるように、配慮が必要です。

新しい人を、救霊をと言いながら、実際は既存の権力構成に従う人だけを受け入れるようでは、人を排除していることと同じです。

新しい人が来るということは、外の刺激にさらされるということです。

既存の体制に疑問が投げかけられるということです。

外の世界の感覚を身に付け、伝道に役立てたければ、外の人の声に耳を傾けなければいけません。