どうやって「奉仕をさせるか」、などというおぞましい思考回路。

どうやって「奉仕をさせるか」、などというおぞましい思考回路。

教会を運営する側の牧師の立場だと、思わずして陥るこの考え。

奉仕奨励のメッセージは沢山聞いてきたが、どれひとつ心躍るようなものはなかった。根本的に…そういった理論は聖書から流れ出てくる福音ではない。

人間的な下心がありありとしている。

とは言え、実際的には、「奉仕」に携わることはー大切なわけでー(ほれ見ろ書いてるだけで気持ち重いわ)、うん、自分としてはね、「奉仕」しているつもりはないの。

フツーに働いてんの。

神様のためって肩に力入れてるわけでもないし、

実際そうなのではあるけども、なんというかね、エンジンが違うわけなのです。

 

神学校の時に学んだ。

「奉仕というのは、例えて言うとコップの水」なのだと。

 

「恵み」という水を注ぐ。それがコップに溜まっていって、縁まで来たら溢れて周りに流れていく。

それが奉仕なのだと。

神様の恵みが十分で、何やら知らんけどやることになっているー、それが奉仕。

あんまり奉仕という言葉は好きでないね。

 

義務でもないし、恩返しでもない。

恵みの結果として、フツーに働いてるだけなんだヨ。

 

でも、実際牧会する上では、この辺りとてもむずかしい問題。

人というのは、なかなか動いてくれないのです(笑)。

 

そこでとばかりに、奉仕の大切さを強調すれば、結局動機としては「どうやって奉仕させようか」と同じ思考回路なわけで。

 

迷いながらも、自分としてはとにかく恵みを注ぐこと、の方向性を大事にしてきた。

いつか、コップの水があふれることを信じて。

 

でも、自分はその結果を見ることは出来なかった。

時間的な問題もあったし、自分の力も十分ではなかったのだと思う。

だから、果たして自分が間違っているのか、本当に「コップの水」理論が生きるものなのか、分からなかった。

 

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この前ある集会で、ある教会の先生からこんな話を聞いた。

 

「自分は前の先生から今の教会を引き継ぐときに、こう言われた。

 

「もしもあなたが人に奉仕をさせれば、きっと皆やることだろう。

でも、人は、言ったことまでしかやらないだろう。

 

あなたがまず、人を恵みで満たすことを優先すれば、

初めは誰も動かないだろう。

でも、時が来れば、求める以上に働いてくれるだろう。」

 

僕はそれを聞いた時、どうかなぁと思ったの。

でも、賭けてみようと思った。

恵みの方で、それでやってきた。」

 

 

その言葉を聞いて思った。

「そうか、この先生、賭けてたのか。

それなら、私も賭けてみよう。」

 

未来はまだ見えない。

 

結果云々以前の話。

 

でも、また働くことがあったら…

いつか、コップの水が溢れる日が来ることを信じてみたい。

 

気の長い話だけど、本当に、教えられたことが生きるのか、

私も賭けてみたい。

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