離任後、教会を離れようと思った。

自由の先にあるのは怒りだった。

 

自由にできるとしたら、

 

キリスト教から離れよう。

教会も、これまでの関係も離れよう。

 

やるなら計画的にやろう。

 

私の自由の目的は、怒りから離れること。

正しさとか、正しくないこととか、汚さとか、きよさとか、そういう、基準さえ無ければどうでもいいことにエネルギーは割かなくても生きていける。

 

生きることは残酷で汚らしく、無慈悲なものだ。

それが私の故郷だ。

 

喜びがあろうと、温かさがあろうと、自分の生活さえ守れば(それすらも大変なのだから)

他人の苦しみまで考える必要はない。

 

自分が悪人だと思われない程度に、いい人であればいいのだ。

 

一枚皮をはがせば、深い衝動。

自己保身。

 

キリスト教が一体何だと言うんだ。

彼らは悪意を善意で隠し、狼よりも残酷だった。

分別くさい容貌で、正しさと常識を身にまとい、人の誠意を養分にしていた。

 

そういうことも、基準さえ無ければ、律法とか聖書とか無ければ悩む必要は無い。

そうだ、彼らも人間なのだ。

私と同様に。

 

であるなら、いいとか悪いとか、思うこの基準は無い方がいい。

同じ戻るなら、何もない世界に戻るんだ。

そのほうが、私は寛容であれる。

律法は人を死に定め、聖書の基準は失望を深くさせる。

だから、悲しまなくてすむ世界へ、離れるんだ。

そこが私の生まれた場所だ。

 

一枚皮をはがせば、深い衝動。

 

もしも、私に公益という目的がなければ、

ミッションという目的がなければ、

 

私の本当に生きたい生を取り戻せば、ひどい衝動を見出す。

 

どこへ向かえばいいだろう。