教会で精神的苦痛を受け続けるとどうなるか

試験が終わってから、大混乱の一時期を通過した。
この10年、教会にうんざりした。
大阪に居た時も、散々書いていたと思うけど、教会とは思えない様々な出来事があった。
神学校でも、各地の教会でもそうだった。

問題がない教会はない、とは思うけれど、それが当たり前であるという姿勢はどうなのだろう。
考えてみれば、私は教会で痛んだ人たちと多く触れ合ってきた。
教会は魂の養いを受ける場所であるはず、の一方で絶えざる葛藤の場所だった。
こういう状態に人が居続けるとどうなるのか、自分の経験と症状を書き記しておこうと思う。

まず、
■ 教会が苦痛である場合の人々の反応

・ 離れる。
・ 同じ価値観を持った人になる
・ 心身にダメージを受ける

■ 牧師に人格的問題がある教会の人々が受ける影響

・成長が抑制される ⇒
良い素質を持っている方々でも、長期間の抑圧で教会の問題に対処する事でいっぱい。
牧師との信頼関係が築きにくいということもあり、視野や活動が狭くなる。

・怒 り ⇒
良心的で、正義感がある方ほど怒り心頭になるので、怒りと不満に支配されるようになる。

・未熟さ ⇒
教会に繋がってはいるが、必要なケアを受けることが出来ないので不安定だったり、混乱しやすい。
人格的成長が伴わない。手本であるはずの牧師が手本にならない。信頼出来ない。
教会の二重基準が低質なクリスチャンとしての基準をいつのまにか形成することがある(仮面的なクリスチャン)。

■ 自分の精神状態

・ 神・教会・キリスト教に対する根本的な信頼の喪失
⇒事件・事故、教会での出来事に関わり続けひどく消耗した結果。
良心・モラルと常に葛藤している状態。失望。

・ 深い怒り、怒りに対する罪悪感
⇒神を信頼したいけど、過去と現在、起きていることに対して混乱している。
怒りの矛先がわからない。

・ どうしたらいいのかわからない
⇒解決と思っていた信仰の世界に不信感を抱いている。

まるで砂漠の中にいるような、何か燃え尽きたような、整理できていないままの精神状態。
きっと、教会を離れた人たち、つらい経験をした人たちには、心的外傷が残る。
そんな人達には、必要な処置があると思う。
時薬も勿論効いてくれるだろう。
でも、根本的に失ってしまった何か、失墜させないための手助けが必要だと思う。

教会で精神的苦痛を受け続けるとどうなるか” に対して3件のコメントがあります。

  1. Sara より:

    本当にそう。イエスを使って、人を崇拝させ、弟子訓練だと言って精神的労働的搾取し、社会性を失脚させ、励ますことも慰めることも寄り添うことも対等に語り合うこともせず、奴隷化する教会が日本はほとんど。帰国してから、本当に信じられない。韓国系だとまんま儒教のStyle取り入れてるしね。どこがクリスチャンなんだよって感じ。仕事の事も根掘り葉掘りきいて、収入を値踏みしてくるし、本当意地汚いやつばっか。だから、日本はChristian人口増えていかないんだなと思った。
    最近はイエス様でさえ入れない教会が多いと聞く。本当にそれでいいのだろうか?私はそうは思わない。

    1. church-mgmt より:

      Saraさん、今日は。Saraさんも、とても大変な状況と、お見受けします。なんとか、安心して集える教会が見つかりますように、お祈りしています。この記事を書いたのは、2年ほど前で、まだ私は韓国系の教会のことはほとんど知らなかったのですが、米国に来て沢山の韓国系の人々に会うようになり、彼らの教会が本当に日本の教会とそっくり、というのかもっとひどい、ということを知るようになりました。そして、アメリカ系の教会では、似たような教会は出来にくい。儒教文化の影響だ、と韓国の人達が言っているので、あながち無視できないなと思うようになりました。
      体に気をつけて、神様の励ましと力がいつもともにありますように、祈っています。

  2. もうこのうま より:

    転会を考えながら検索していて、このページにたどり着きました。

    求道、受洗してから20年以上通った教会ですが、最近転会を考えています。
    理由は、先生の老化(劣化)です。
    長年奏楽の奉仕をしてきました。先生が礼拝で使う曲を選ばないのがうちの伝統で(先生が讃美歌にあまり興味がないことと、奏楽者があまり上手ではないので、難しい曲だと弾けないから)、私なりに説教題に合わせた曲を選んできていたのですが、最近私の選曲が先生の気に入らなくて、終わってから「合ってなかった」と文句を言われて、それがストレスになってきました。
     以前は同じことをしていてもこんなに文句を言われることはなかったのです。最近は先生もけっこうシャレにならないぐらいの物忘れが多く、合ってなかった、と言われないよう、事前に打ち合わせをしていても、そのことを忘れてやはり合ってなかったと言われます。先生も、もともと上手ではなかった説教の質がさらに低下して、おざなりな世間話ばかりになってきています。そして教会の車の傷がどんどん増えて行っています。総合して考えると、たぶん認知症の初期症状ではないかと思います。
     それにもかかわらず、本人はあと10年はやりたい(今だいたい70歳ぐらい)と言っています。うちの教団は定年がないので、本人がやりたいと言えばいつまででもやれてしまいます。役員として、これまで先生をお支えしてきましたが、先生の気まぐれや物忘れに振り回されたり、フォローして回らなければいけないこと、先生ができなくなって、代わりに引き受けたことが多くなりすぎて、日常生活にも支障をきたし始めました。
     幸い(?)コロナのおかげで礼拝がリモートになり、いろいろな伝道イベントも中止、クリスマス関連の行事もすべて中止になったので、今年はゆっくり過ごせていますが、礼拝が再開されればまた似たようなことは続いて起こるでしょう。

     幸い、次に通うべき教会は見つけました。次の教会はコロナ下でも気をつけながら礼拝を守っているので、今はそちらに(母教会にはないしょで)通っています。次の教会も規模は大きくないのですが、きちんと御言葉が語られる教会です。先生の説教もよく理解できます。今の感触では、次の教会の先生、信徒の皆さんも温かく迎えてくださるんではないかと思います。

     母教会の方は,先生も、信徒もみんな老化して、実働する人がいない中よそへ移るのは心苦しいし、今いる信徒の皆さんとお別れするのは本当にさびしいのですが、母教会に行っても自分の心が離れてしまって、教会に奉仕しよう、という気が起こってこないのです。あと10年も、こんな不満を抱えながら信仰生活を送るのか、と思うと、たまらなく嫌な気分になります。
     ただ、住んでいるのが地方都市で、人間関係も狭くいつどこで顔を合わせるかわからないような場所なのです。母教会の先生に対していい感情はありませんが、さりとてケンカ別れするのもまずい。あまり波風立てずに円満に転会できるのか、転会するにはどうすればいいか、考えあぐねています。

     

コメントは受け付けていません。