教会で受けた精神的苦痛の後遺症が続く

前回の対話の記事から1ヶ月以上が経過した。

何度今回の記事を書こうとしたか、分からない。

でも、書けなかった。

他のものも書けなかった。

心が焦げたエンジンのように、空っぽの壺のように、振っても叩いても何も出なくなってしまった。

書くことも、話すことも苦痛になった。

言葉そのものが浮かんでこない。

1行書いてはつながらず、考えては1時間が過ぎてしまう。

心を手さぐりすると、塞がっていない傷口に触れるような呻きだけが感じられた。

今頃、1ヶ月前の事を振り返って、やっと続きを書いてみようと思う。

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前回の対話から分かったこと、

よく使われているフレーズを見直すこと、そして、左足から踏み出すこと。

 

どうやって適応させて良いものか分からないが、何かヒントを得たような気がした。

 

数日後、関西の牧会塾に参加した。

参加してみて分かったのだけど、牧会塾って勉強会というより、修養会のような感じ。

自分の霊性を見つめる時間、ということらしい。

会の内容は、ヘンリーナウエンの霊性について。

ナウエンの著書を多数出版している、あめんどう出版の企画・責任者の方が講師だった。

ヘンリーナウエンの考え方や、捉え方には共感しているし、何も押し付けがましいプログラムなど一切なかった。ところが、心が重くてたまらない。

「もう来たくない」と思った。

その日帰ってから、お世話になっているKさんと話して、改めて自分の中の違和感に気がついた。

内省的な研修会が、心が弱っている私には逆効果。

精神の部分には触れて欲しくない、そう思っているみたいだった。

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牧会塾2日目、違和感を抱えながら電車に乗って会場に向かった。

電車の中で考えた。どうして、私はこんなに嫌な気持ちになったのか。

そこで思い出した。

「よく使われる言葉、そこについてくる概念をもう一度見直すこと。」

一体自分が何に引っかかっているのか…

「瞑想」「黙想」「霊性」

これらの言葉がひどく気持ちの悪い、洗脳手段の一つに聞こえた。

こんな言葉が多出する研修会が、まるで「聖会」の空気。

「祈り込め」とか「泥を吐け」とか言われていたあの空気。

痛くもない腹を探るような、無闇矢鱈に自分の心をあら捜しするような、

泣いたり、大声を上げたり、机を叩いたり、自分を打ち叩く痛みで満足するような、あの…。

…でも、今から行く研修会はそういう場なのか?

これらは、私の…心のバイアスなのではないのか。

再確認すること、

聖書の基準に照らし合わせる。

聖書はそういうことを言っているのか。

左足で登ること、

再定義すること、

慣れない足で、1つずつ、思考の階段をつなぐ。

これから行く研修会は、私にとって何なのか、そして、何でないのか、

確認するためにメモを取った。

(その時の記録)

「彼ら(研修会)は、私に危害を加えない。

私を今のような失望に導くことはしない。

心のなかに踏み込んで、罪悪感を埋め込んだり、

あなたに足りないことがある、と攻撃したりしない。

集会の目的は、私の成長であって、

彼らの集団に「相応しいクリスチャン」にすることではない。

集会の目的は、立派な信仰者としての私、に酔うことでもなく、

アピールすることでもない。」

こう書いて初めて、自分が研修会に対して先入観を持っていることに気がついた。

そうじゃない、

左足で、左足で、

自分が生きていく世界を眺める。

私が、本来受け取ることが出来るはずの、

提供されているままの、

恵みを得ることが出来るように。

この思考回路を外さない限り、

拒食症のように、目の前に食べ物があるのに、私は痩せ衰えてしまう。

見えない鎖に繋がれて、

鎖なんてどこにもないのに。

左足を、

一体どれだけ、私の心には、恐怖が染み付いてしまったことだろう。

左足を…、

一体どれくらいの、手間と回復が必要になるのだろう。

2日目の研修会は、定義を再確認出来たため、とても楽になったが、

その後の数ヶ月、不意に落ち込むことは続いた。

一体何が引き金となるのか、自分でも分からなかった。