断絶の歴史

ユダヤ人は、血筋がつながっているということに誇りを持つ。
日本人もそう。
キリストはどうだろう。由緒正しい「純血」だろうか。
マタイの福音書などに載せられているキリストの系図が示している事は、救い主の系図は「異質」なものに繋がれている、ということではないだろうか。
異邦人の女や、遊女と思しき女性、しかも記録されているのはヨセフの家系ではなく、マリヤの家系。
確かにダビデの末裔だけれども、果たしてあの部分が、キリストの「血筋の正しさ」を証明するためであるか考えると、むしろ読む人には逆の印象を与える。
本当に「血統」の正しさを強調したいのなら、豊臣秀吉のように血統書に工作を加えて美化したり、不都合な所は書かなかったり、いっそ載せないという手もあっただろう。
(そも、聖霊によって身ごもったという点で、血族のなかにあるんだか無いんだか分からないけれど。)
あの部分が伝えたいことは、キリストは断絶している者達の中に、生まれるということではないのだろうか。異民族だったり、宗教的被差別民族だったり(ナオミ)、イスラエルの敵だったり(ラハブ)、羊飼いだったり(エッサイ)、本来記録されない可能性のある立場の者だったり(マリヤ)、それらの中に生きているというのが、キリストの家系図と生誕に込められたのメッセージなのではないだろうか。
今日的に、私達が生きる中で、この名もない者達…血縁によってではなく、心の割礼、アブラハムの子孫たちのイメージが息づいているのだろうか。
その、躍動感が。