カルトは信仰的な求めを搾取する -宗教とカルトの違い
以下転載してみます。
「カルトは人間の「信じる」力を破壊するので、入ってしまった人は何をどの程度、どんな風に信じたらいいのかという、微妙な調節感覚を失いがちなのです。
ここでは、「宗教もカルトも同じようなものだ」という極論から冷静に身を引いて考えるために、カルトではない宗教とカルトとの違いを示します。
■宗教は個人の自立を尊重する。
□カルトは服従を強いる。■宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
□カルトは信仰的な求めを搾取する。■宗教は問いや自立した批判的な考え方を許し、また奨励しもする。
□カルトは問いや自立した批判的な思考をさせない。■宗教は心理上のことと信仰上のことを統合する。
□カルトは信者を「カルトの中でのよい自分」と「過去の悪い自分」に分裂させる。■宗教の改宗は一個人のアイデンティティに関わる内的プロセスの展開を伴う。
□カルトの改宗は、一個人のアイデンティティに顧慮することない外的力に、知らないうちに投降してしまう。■宗教は金銭を倫理的抑制に従いつつ、崇高な目的を果たすための手段の1つとしてみなす。
□カルトは金銭を、目的として、また権力を手に入れ、リーダーたちの利己的な目的を果たすための手段としてみなす。■宗教は、信者と宗教家とのセックスは非倫理的であると見なす。
□カルトはしばしば、信者をリーダーたちの性的欲求のはけ口とする。■宗教は批判する人に丁寧に応答する。
□カルトはしばしば、物理的あるいは法的脅迫で批判する人々を脅す。■宗教は家族、家庭を大切にする。
□カルトは家族、家庭を敵と見なす。■宗教はある人が入信しようとする時には、よく考えてから決断するよう勧める。
□カルトはほとんど情報を与えないまま、即断するように求める。 」『カルトに傷ついたあなたへ』「宗教とカルトの違い」より
教会に来た初めの頃、なじまないことがあった。
自分は「罪深い者」「だめな者」という自己卑下。
今でも、こういった事を講壇からのメッセージで聞くと違和感を覚える。
確かに、原罪という深い罪深さは人の中にあると思う。
でも、それと、自分をまるで「ウジ虫」であるかのように考えるのは違うと思う。
何かの信仰書で、神さまは「ウジ虫」のような私達人間のところに来てくださった、という下りを読んだことがある。
創世記の「神は人をご自身のかたちに似せて」というのは、一体どうなったのか?
信仰が回復させるべきなのは、堕罪した3章の罪人ではなく、創世記1章の祝福の存在としてではないのか。
どうして、キリスト教は我慢大会みたいで、喜んでいることを実は敬遠していて(まるで怠けていると言わんばかりに)、犠牲を要求することが多いのか。
宗教は、人を本来幸せにするためのものではないのか。
人生をややこしくするものなのか?
全く違う在り方で、信仰者として存在することは可能なのではないか。
いろんな在り方のクリスチャンに出会って、そう思う。
上の条項を当てはめて、クリスチャンを考えてみた。
「人は、自立した考えを持った信仰者になることが出来る。
その意見は尊重される。
クリスチャンは、身体的自由、考えの自由、経済的自由、時間の自由を信仰によって搾取されるようなことはない。
クリスチャンは反対意見を述べることが出来る。
クリスチャンは自らのすべての人生の段階、状況を、神に愛されている自己として、統合できる。
教会にいようと、外にいようと、組織内にいようと、いまいと、どこに生まれて育っていようと、私達は神に愛されている存在である。
クリスチャンは自らの内的成長のために必要なプロセスと時間を尊重される。
必要な段階に至るプロセスを強要されたり、落伍者とみなされることから自由である。
クリスチャンは家族、家庭を大切にする。
クリスチャンは何かを決定する時、必要な情報を求める自由と権利がある。
それは、それぞれの人生や財産に関わる大事なことだからである。
またよく考え、調べ判断することは、神に与えられた知性を以って、託された財産を善管するために必要なプロセスである。
それらのプロセスを、「不信仰」と言われる必要はない。」
信仰が、暗闇の重力から自由を与えるものであってほしい。