信仰は世襲制ではないので、「継承」するものではない。
つい先日ね、なんか若い人の集会が云々という話で、
「この教会の素晴らしい信仰を、次世代に継承するために、これから(ユースの集会を)頑張っていこうと思います!」
って発言を聞いたのさね。
それ聞いた時にね、
「(うわー勿体無いなー、こんなに新しい教会なのに、リードする人そんな感じでやるの?)
(全部の人がそう考えているとは思わないけど、聞いたよそんな発言、これまでに嫌というほどね。
あぁ、人間ってそんな風に考えるんだな。)」
って、思いました。
「継承」ってね、そのニュアンス常々すごく引っかかります。
信仰って、世襲制じゃないでしょう。
- 「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」マタ3:9
- 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」ヨハネ1:12,13
- 「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタ12:50
まさか、新約聖書の時代に入って。
子孫を教育することの大切さは書いてあるけれども。
教会の中で聞く「継承」には、なんか「私達のようにしろよ」的な押し付けを感じる。
反骨精神逞しすぎの自分。
何か、久しぶりに「継承」とかって聞いて色々考えてしまうね。
私だったら、若い子どもたちを「育てる」って方向で考える。
彼らの心、持ち味、捉え方、生き方を伸ばすためのお手伝いをする、という在り方で。
次の世代には次の世代の考え方がある。
だから、時代の変化に応じていけるわけだ。
神さまが、次世代に託した個性や特性があるだろう。
そして新しい世代には新しい世代の人格がある。
きっと我々が誰かのお仕着せが鬱陶しいように、彼らもまた「誰かのお古」は鬱陶しい。
本当に学んでもらえるものがあるとしたら、彼らに選んでもらったら良いと思う。
来る世代もまた、良い賜物と霊性を与えられた世代なのだから、彼らの素質に大いに信頼して、選んでもらったらいい。
私は誰かの信仰を継承するつもりはない。実質リアルに1代目だし、一体何をどう継承するの?
でも多くの尊敬する信仰者たちに会うことが出来て、彼らから素晴らしい遺産を頂いたと思っている。良い刺激を吸収しながら、私は私というベースを基にして、神さまが創造して下さったオリジナリティを生きている。
もし、そんな我々に次の世代が与えられるのだとしたら、彼らから尊敬され、何かを吸収してもらえるような、背中になりたいと思う。
私は誰の信仰も継承しない。
各々、神さまが責任持って育ててくれる。