泣き寝入りして忍耐することが信仰的なのか
あれ、結構さぼりました。
何だかんだして、私は元気です。
静かな日々を送っています。
あんまり整理できてませんが、書いてみようと思います。
私は今、これまでとは違う2人の牧師先生から指導いただいています。指導と言っても、折々にアドバイス頂く位ですが。
教団教派も全く違う先生方の動き方を見ています。
1人はとても、いわゆる霊的な指導をメインに行っています。
もう1人は、実際的なノウハウを持っています。
私は自分の課題を通して、2人の先生がどのような指導をされるのか、見ることが出来ました。
実際的な方は、本当に弁護士や警察と連携を取ります。
被害に遭っている人たちの声を形にして、率直に言うとカウンターパンチを繰り出すための技です。
霊的な方は、その人の生涯を未来に向けさせるためのものです。復讐ではなく、生産性のある方向へエネルギーを使うようにというものです。
私は思います。
両方が必要だと。
これまで私は、どちらかと言うと霊的な方法で物事を解決しようとしました。
それしか知りませんでしたし、それが信仰だと思っていました。
でも…これは私の選択で、
私は実際的な方法を身に着けていきたい。
私は、天に御心がなるように、地にも成させたまえ、は最大限に努力するべきことだと思います。
天の国での平等、正義は、地上で少しでも垣間見させてあげられるものだと思うのです。
もしも、信仰が、神さまの約束がいつかの日の「ふわっ」とした希望なら、
キリスト者は貧困や差別に立ち向いはしない。天国に希望を置いて、ただ耐えるだけ。
私は誰かが泣くときに「あなたの自我が死んでいない」とか「感謝すべきだ」とか「もっと苦しい人がいる」とか、「イエスさまはもっと苦しかったんだ」とか「いつか神の裁きが下る」とか言うだけの人にはなりたくない。
一緒に立ち向かう人になりたい。
一緒に立ち向かう誰かがいる、そうしてもらって、私が嬉しかったから。
苦しみをその人の背中にかぶせるだけの方法しか、教えられないのですか。
信仰とは、もっと具体的な希望には成り得ないのですか。
私は、ただ一人の小さな課題でも、取るに足りない問題などというものは、神さまにとって無いと思うんです。
ないがしろにされ、無視され、虐げられ、貧困に苦しみ、孤独に耐える、それを、あなた一人の背にかぶせて成り立つような「小さな問題」は無い。それは、神さまにとって大きな問題だと思う。
だから、その小さな問題を具体的に解決し、一人がこの世で笑顔になれるように、精一杯戦いたいと思うんです。
実際的に、霊的に、2つの知恵をもらって、私は天にも地にも可能性があることが分かりました。
自分自身が、両方の知識を身につけて、いつか人の役に立つ者になれたらと思っています。