カルト教会を出て、大変だけど悔いはない。

今日礼拝の後、ひょんなことで知り合った方と、お話した。
「あなたは何をしているのか?」
と聞かれた。
「教会で働いていたが、そこがとんでもなかったので、出てきた。」
と答えると、その方も十数年前に教会で色々あって、出てきたのだと言った。
「言うべきことも言った、それでいいと思ってる。
十数年経った今も、その時のことを思い出して、辛くなる。
一般社会で起きたことなら、忘れられる。でも、教会でだったから、余計辛かった。
意見することは楽なことじゃない。
でも、その時そうしなければ、私はたまらなかった。」
と言われた。
「私も、言えることは、何とか言いました。
でも、言わなかったことも沢山ありました。良心に反することも沢山ありましたが、秩序を乱したくないのと、信徒さんを動揺させたくないので、黙って従っていました。
でも、そのことも、何だか辛いです。
どうしたら良いのか分かりませんでした。
言いたいことも言わずに1年やったら、何だか調子が悪くなりました。」と答えると。
「それはね、言わなくてよかったのよ。
「時がある」って聖書にあるでしょ。私は言わなければという確信があれば言うけれど、そうでなければ言わないわ。
判断に迷っている段階では、言わなくてよかったのよ。その時ではないの。」と言われた。
そうか、とほっとさせられた一言だった。
そして、
「あなたはどうなりたいの?」
と尋ねられた。
私が「教会と、信徒さんのお役に立ちたいと思い、スキルアップのため、大学院を目指してるが、どうなるのか分からない。」と言うと
「詳しいことは分からないが、これだけは言える。好きなことをやりなさい。
だって、何が正しいのか、なんて分からないのよ。
その時は。誰にも、分からない。でもね、これで良かったって思えたらいいのよ。」
という答だった。
正しいことは分からない。
何が良いことなのか。
帰ってきて、そのことを考えていたら、この前見た『進撃の巨人』の一場面を思い出した。
「自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にも分からなかった…
だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ」
『進撃の巨人 9話~噛みつく』より
だから、まぁ、せいぜい、悔いが残らない方を、自分で選べ。