関西牧会塾第4回目 ヘンリーナウエン

関西牧会塾第4回目(最終回)1日目

 

毎回1日目しか行ってないんですが。

 

ナウエン講座ということで、牧会塾って、内容がどうだったとか書いたらいけないんだそうです。

それで個人的にどう思ったかーくらいしか書けないんですが。

でも、4月だったか第一回目には、ボロボロになって帰ってきてしまった私でしたが、今回は大丈夫でした。

色々と、心に響いた部分がありました。

ナウエンの思想や著書の背景等を聞いて、ナウエンはつくづく繊細な感性の持ち主だったのだと思います。

今日のテーマは「憐み―Compassion」。まさに、ナウエンの真髄的な…。

 

「イエスが憐みによって揺り動かされたとき、すべてのいのちの源が揺さぶられ、すべての愛の土壌が勢いよく割れて、神の莫大な、無尽蔵な、計り知れない優しさの深淵(abyss)がその姿を現した。」『Compassion』小渕春夫氏訳

 

というところ、「優しさの深淵(abyss)」が目に留まりました。

「abyss(深淵)」は、日本語でもよく聞く単語ですが、通常「底なしの沼」とか「地獄の淵」のような、暗くて怖いイメージの方で使います。

 

でも、ナウエンはキリストの魂が憐みに震えるとき、「優しさの深淵(abyss)」がのぞく、と表現しています。

心に走る亀裂と優しさが出会う場所。

 

私は常々思います。

深い魂の淵を歩くほど、見つけられる恵みの質も深くなると。

 

でも、誰でもここに耐えられるわけではないのだと。

耐えられるから強いとか、弱いとか、そういうことではなくて、

何というのか、光と闇の、希望と絶望のぎりぎりの淵を歩いているような気がするんです。

 

正気と狂気の崖っぷちを。

 

そんな心の深淵、abyssを歩く必要はないと、思われるかもしれませんが、湿った土と命の匂いに春を嗅ぎわけるように、中には本能的に引き寄せられてしまう人もいるわけです。

 

ニーチェの「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」という言葉を思い出すけれど、abyssを歩いている人は、少なからずいるのではないかと思うんです。

ただ、言葉にできるか、出来ないかとかそんな違いくらいで。

 

答えがなくて、混沌としていて、あらゆる光を吸い込んでしまいそうな、そんな場所。

普通の精神では耐えられない、死と悲しみの重力が精神力とかすれて火花が散るそんな所。

好んで近づく場所でもない…。

 

ただここを歩いていく旅人も居るということで。

 

私はこんな心の風景が嫌でした。

逃げようと思って、逃げようと思って、自分が滅びきってしまわないように、信仰はこの深淵を埋めてくれるもものだから、素晴らしいと思って…。

 

でも、気が付けば

人の痛みとか、うまくいかないこととか、人生の長さとか、うめきとか、そんなものに耳を澄ませるうちに、益々当惑する自分がいました。

 

ナウエンが言う、憐れみへの道というのは、貧しい人に触れるとき、自らの貧しさに気付く、という姿勢だそうです。自分は克服した、という在り方ではなく…。「成長=強くなる」、という方向性とは逆向きです。

益々傷つきやすく、無防備になっていく、それが人間に対する神の態度、キリストの憐みであったと。

 

キリストの魂が震えるとき、共に悲しむとき。

「計り知れない「優しさの深淵(abyss)」が姿を表す。

 

だとしたら、私たちの心の淵は、キリストに出会う場所になる。

キリストの優しさに出会い、希望を紡ぎだしていく場所に。

 

そう思ったら、自分が佇んでいるabyssはあまり怖くなくなりました。

 

深淵を旅する者には、旅する者の使命があると思うんです。

淵に落ちてしまう者もいる。

 

abyssの旅人には尋常ではない精神力が必要で。

人から嫌われたり、信仰が出来ていないと言われることもある。

深く深淵に降りていくため、考えたり、悩んだりする期間が長くなるからです

 

でも、深淵で見つけてきたものは、とてもよく輝くことを知っている。

それが誰かの役に立つことも。

 

私は、自分の深淵を見つめなおしてみようと思いました。

絶望に出会うためではなく、キリストに出会うために。

 

泣いて、笑って、相変わらず傷を重ねながら、

益々、無防備になるのかもしれないけれど、

キリストとともに、優しさの深淵を、旅していく者になれたらと願います。