疑うことは、信じる過程

12弟子の中で自分に一番近いタイプを考えるとしたら、間違いなくトマスだと思っている。

Doubting Tomas、そう、疑い深いトマス。

どうしてトマスだけ復活後キリストが弟子たちの前に現れた時に不在だったのだろう。

トマスこそ、あの現場に居合わせる必要のある心情の持ち主だったのに。

思うに、トマス自身で自分の疑い深さを知る必要があったのだろう。

私は疑うことが悪いことだとは思わない。

私にとって疑うことは、信じる過程だから。

疑うことは考えることなのだ。

どうして「疑い深い」トマスが12弟子の中に居たのか。

それはきっと「疑い深い」人間も、良い信仰の持ち主になるというメッセージだと信じている。

C・S・ルイスはとても皮肉屋で疑い深かったが、後に懐疑主義者の使徒と呼ばれたように。

キリストに、ため息つかれて説教されなければ分からない人間ですみません、としか言いようがない。

そんな私は今、静かな環境でこれまでのことを振り返っている。

批判的な考え方をする私にとって、遭遇してきた矛盾はいっぱいあった。

非クリスチャン環境で育ってきた人間が、温厚な信仰を養うに健全な教育環境であったとは言い難い。

沢山のギャップに苦しみながら、ひたすら駆け抜けてきたような気がする。

一人でとぼとぼ歩きながら、周りのクリスチャンの様子を眺める。ぼんやりとメッセージを聞く。教会の営みの中でぼーっとする。

何だか牡蠣殻のように身に着けていた批判精神を少しずつ解除していっている。

なぜなら、もう必要ないから。

もう、必要ないから、うわーお。

自分の中に染み付いていた解釈を再定義する中で、いかに余計なものに遮られていたかが、分かるようになった。矛盾に対する怒りと混乱、神に対する誤解、警戒心。仕方がない環境だったとはいえ、あまりに分厚くなった心理武装のせいで、聖書のメッセージを素直に受け取ることが出来なくなった。

私はもう一度再教育されることは可能だろうか。

素直に受け取りなおすことが。

信じられなくなった「教師」と言われる人たちへの信頼を取り戻すことが出来るだろうか。

私はまた人を信じることが出来るだろうか。

何が聖書の示すことで、何が勘違いしちゃってる部分なのか、整理していけるだろうか。

素直になるということは難しくて、また神が私をだますのではないか、傷つけるのではないのだろうかと、魂の深いところでは警戒している。

神についていったら、ついて行ったからこうなったんじゃないか、とか考えている。

でも、ここまで守られてきたのも、神の憐みによるのではないかと考えている。

そんな私は、神の善意をまったく信じることにした。

疑う心は、次の疑いを作り出す。

とは言え、私の元来チキンな性根は、そう簡単に再生しない。

おまけに今は個人のペースを存分に楽しめるわけだから、好きなだけ引きこもることだろう。

素直に、恵みを吸収できるようになるまで、まだ静かな時が必要のようです。