霊的なものを手に入れるために、行動を積み重ねた

目標にどうやってたどり着くのか。

雪山に登るのに水着を買って、泳ぐ練習をしていても、頂上にたどり着かない。

東京に行くのに、滝に打たれて苦行をしてもしょうがない。さっさと新幹線に乗ろう。

私たちは足りないものを埋めるために、何を投入しているのだろうか。

教会に活力が足りないとか、そういうことで特別集会だとかチラシ配りに散々駆り出された。

 

霊性を磨き上げるだとかで、ぼろぼろになりながら集会に出た。

 

今思えば、時間と労力を目標までの到達手段として投入していたわけだ。

 

全てを否定するわけじゃないけど、チラシを配れば魂が「獲得」出来るとか、それをしないことは私たちが「怠惰」になっただとか、霊的な勤めを怠ることだとか、

何もしない不安感に襲われ、己の真の姿とか、本当の問題点とかに目を向けることなく行動を成果に結び付けようとした。

 

今思う。私は霊的なものを手に入れるために、行動を積み重ねていたわけだ。

弟子たちの前にお金を持ってきた魔術師(使徒行伝のエルマ)のように、目標に対して的外れなアプローチをした。違う建物の階段を一生懸命登っていたようなものだ。

 

今思う。

磨き直されなければならないものは、自らの思考回路の中にある。

手段は目標に到達するために、意味のある積み上げられ方をしているのか。

ベクトルはキリストのほうへ向かっているか。

存分にはびこった、行動主義、立法主義、排他的で自分たちだけが正しいと思う自己中心性。

腐敗した中世の教会や、メソジストが活躍した産業革命時のイギリスの社会情勢と同じくらい、立て直しを必要としている霊的情勢だ。

 

少なからぬ、教会の犠牲者たちの言葉を聞くに、どう形容してよいかわからないけれど、共通する宗教の歪みに…応答していくのことは宗教の役目ではないか。

 

キリストの姿を生きていく。

キリストの霊的遺産を私たちの時代に刻む。そのための奮闘。