神の沈黙-神との関係性が変わる時
『クリード チャンプを継ぐ男』(原題:Creed)という映画が最近公開されたらしい。
クリードって、何の単語だったかと思って調べたら、
Weblioによると
「creed 1.(宗教上の)信経. 2. 信条,信念,主義,綱領。
【語源】 ラテン語「私は信じる」の意」
ジーニアス英和辞典によると
「1.(宗教上の信条)、信経(信者の側から見たもの:教会の側から説くものはdogma);≪正式≫宗教
2.(一般に)信条、信念、主義、綱領。3.=credo」
ちなみにDogmaは、哲学などでよく聞く言葉ですが、
「ドグマ —dogma
ギリシア語では元来公的機関の政治的決定もしくは命令を意味し,さらに哲学上の諸学派の学説をもさした。教義,教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の項、コトバンクより
ジーニアス英和辞典の「1.(宗教上の信条)、信経(信者の側から見たもの:教会の側から説くものはdogma)」に目がとまりました。
最近の状況から…私が回復しなければならないものが、深いところにあることに気が付きました。
それは、神との関係です。
信仰を失ったというわけではない。むしろ、信仰に支えられて出てきた。
でも、何かが変わった。
深い不信感は、人や組織だけではなく、神に対しても向けられたものだった。
一番回復しなければならない部分は、きっとそこなのだろう。
私は何を信じ、何を生きてきたのか。
私は、dogmaで生きてきた。哲学では思い込み、や偏見ともいう。
教えられたことを考えないで生きてきた。
もちろん持って生まれた反骨精神と批判眼でありったけの反抗は繰り返してきたわけだが、
何かが分からなかった。
私と神との間を引き離していたのは、私の中のdogmaだった。
神はこうであるはずのものとか、こうであるはずのものであるとか、それが苦しみに陥ったとき、ひどく私を混乱させた。
染み付いたdogmaはなかなか抜けない。
私は人に重ね合わせて神を考えてきた。
出来事に重ねて、神との関係を推し量ってきた。
私の立場で信仰を確認した。
その全てを失った。
私に神は見えなくなった。
神は私にとって耐えがたい沈黙だった。
話しかけても何も返ってこない真空だった。
creedは「私は信じる」と言う。
それは教える側ではなく、信じる側の、信徒の告白である。
「私は信じる」と言いたい。
かくあるものではない、私自身が新たに見つけていく。
私は自分のdogmaを乗り越えていく。
誰かによって、何かによって保障されている関係ではなく、私自身の中にある関係に。
先が見えない。
私は私のcredoを生きる。
自分自身の手になじむcredoを、学ぶまで。
信仰が息をするような、神との関係を生きるように。
信仰が私自身の等身大であり、息遣いであるように、神との歩調を探していく。
クリスマスに、私にとっての新しいキリストとの出会いを得る。