私は私が思う限界を超えて、前に進まなければならないわけです。
一般の人たちと共に働いて、これまでにない経験をさせてもらっている。
家にいる時間より、ここで働いてる時間のほうが多い、と20代の女の子が笑って言う。
本当にそうだろうなーと思う。
信仰を持って外で働くというのは初めてで、かつ一番下っ端なわけで、周りの先輩から教えてもらって仕事をします。
聖書の話をするわけではありません。
仕事上のどこにも、これまでやってきたことをやる部分はないわけです。外面的には。
当初、周りのほうが興味津々で色々聞いてきて、逆に引くぐらい恐かったです。
(神父と牧師は違うのか、とか家によく来るんだけど、とか(いや、それ多分違う))
その中で半年程が過ぎました。
一般の方が仕事をしていることと、自分が信仰を持って仕事をしていることとどこか違う部分があるだろうかと思います。
仕事内容はまったく同じ。
同じなんですけど、何か違います。
やはり、信仰を持って働いている大きな違いを生んでいると思います。
優劣があるとかそういうことではなく、違いとして。
私には考えや行動の基準となるもの、信仰があり、それを基にして物事を判断します。
あらゆる人との関係に、キリストとに倣う対応をしているかが、無意識にも刷り込まれてきます。
もちろんいつもそんなに聖人君子のようであるわけではないんですが。
そうでありながら、
私は根っから楽したがりです。いらぬ苦労は喜んで避けたい。
信仰というのは、いらんものまで背負って生きる道みたいに思います。
どうしてこんなことせなならんのだ、と楽したがりの私の脳みそはいつも叫んでいました。
人様に迷惑かけずに、つまるところは自分の利益が最大になる程度の利害関係を持てばいいんだ。
今日なぜか、一生懸命パソコンを勉強している生徒さんたちの背中を見ながら、ぼんやりと思いました。
私がこれでいいと思っている私のレベルと、
神様がこうなってほしいと思っているレベルは違うんだ、と。
私は、神を知らなければ、嫌な思いをしてまで変わることなんてないだろう。
そう思えば、いらぬ苦労は、何かの、きっと私のための修練で、修練で修練で、私はこれを超えてさらに良くなると思うんです。
物事は、私が思うようにはいかないけれど、私は何かに向かっているわけです。
私は私が思う限界を超えて、前に進まなければならないわけです。