T先生 -日本出立前の不思議な夢

不思議な夢を見ました。

中学時代にお世話になったT先生でした。

当時剣道部でもっぱら部活ばかりして、野山をほっつき歩いていた私は、英語は全くダメでした。

 

塾なんて行ったこともないし、そもそも田舎に塾なんて町の真ん中に1件しかありませんでした。

そんな私に英語を教えてくれたのが、引退教師のT先生でした。

T先生は私の家の近くに住んでいて、元々中学の社会科の先生でした。

でも、英語も出来るということで、週に一回2時間ほど勉強しに行くことになりました。

 

先生は毎回手作りのプリントを用意して、私は先生と差し向かいで畳の上の立派な長机の前で勉強することになりました。部活だなんだで汗だくになった挙句、静かな先生の屋敷に長時間座ることになったので、当然毎時間居眠りすることになってしまいました。

 

一対一なのに。

 

先生はもともと武家の家で、今思えば立派な武家の鹿児島弁を話す人でした。

広い家屋敷はいつも整然としていて、塵一つ落ちておらず、夏には涼しい山風が縁側から入り、それはもう絶好のお昼寝勉強タイムでした。

 

なぜかいつも半分割れたハエタタキが常備されており、蠅をたたくことはもちろん、それで畳をバシバシと叩くことによって、私の目が覚まされるという仕組みになっていました(もしかして、あれは私のためにあったのだろうか)。

眠い目をこすりながら、ふと前を見ると、先生が寝ているということもしばしでした。

 

何とか高校合格後も、英語はからきしダメ。

それでも、先生の所には折々遊びに行きました。

 

大学に合格した時、先生はお祝い金をくれました。

私は本当に貧しくて、大学に行こうにも移動費もなくバイクで向かったのですが、そのためのガソリン代と、食事代は、この先生からのお祝いがあったから確保できました。

 

せっかく教えてもらったものの、英語を活用する機会はないまま、大学卒業後4年経って大学院で学びたいと思い始めたころから、再び英語を勉強し始めました。

オンラインで英会話を習い、やっと少し喋れるようになったころ、先生に手紙を書いたことがありました。不出来な学生でしたが、先生から教えていただいた英語をやっと活かせるようになりました、と。

 

しばらくたって、返事を頂きましたが、ノート紙に、震えるような字で文字が書いてありました。

以前は便せんで返事があったので、変だな、と思いました。

 

              T先生の家T先生の家

 

地元に帰る機会があり、先生に会いに行こうと思いました。

 

しかし、先生はもう自宅におられず、高齢のため高齢者施設にいる、ということでした。

何とか入居先を調べ、会いに行くと先生はすっかり年を取られていました。

私が英語を教えてもらっていた時から、10年余。

「先生、私は分かりますか?」と話すと、ぼんやりして誰か分からない様子でした。

しかし、しばらくすると、うんうん、と頷いてくれました。

あまり会話はできませんでしたが、あとで分かるかもしれないと思いメモを置いて帰りました。

後で先生のお姉さまから手紙を頂きました。

私が会いに行ったときは時間的な制限があり、夕方7時を過ぎていたため、もう睡眠薬かなにかを処方されていて、ぼんやりしていたのだそうです。

翌朝、私のことを話していたと。

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それから、実家に帰る機会は何度かありましたが、先生の所に行くことはありませんでした。

先生がとても弱っておられたので、先生はそんな姿を私に見られたくないのではないか、とか色々考えてしまって、躊躇しました。

それから暫くして、実家から連絡があり、T先生が亡くなられたことを知りました。

悔みました。

私にしては珍しく、会いに行くのを躊躇して…機会を活かさなかったと思いました。

斎場を聞いて、弔電を送りました。

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それから半年位たち、また実家に帰る機会がありました。

先生のお墓参りにだけでも行きたいと思いましたが、残念ながら墓は遠方にあるということでした。

近くに先生のお姉様がいらっしゃるということだったので、花とお菓子だけ持って行って、お姉さまに先生への感謝の思いをを伝えました。

先生の家に行ってみましたが、すべての戸は締め切られ、庭木は荒れて、主を失った家は空っぽになったようでした。

門柱をくぐり庭に入ってみました。懐かしい風景がありましたが、年月はだいぶ経ってしまいました。

寂しくその場を後にしました。

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夢の中で、気が付くと先生の屋敷の窓辺に立っていました。

見下ろすと、桜の花吹雪の下を、歩いている人がいました。

かつて、お元気だったころの先生でした。

恰幅のいい姿で、背筋をしゃんと伸ばして着物姿で、悠々と歩いていました。

私はそっくりだ、と思いましたが、まさかと思ってただ見ているだけでした。

すると先生がふと私を見上げて、笑いました。なぜか、目の所は眩しくて見えなくて、口元だけ、表情がわかりました。

「先生…!」

「先生、先生は亡くなられたものと、思っていましたが、違いましたか、お元気そうで!」

と私が言うと、先生はにっこり笑いました。

急いで玄関に向かい、先生の所に行こうとしました。

玄関の戸をくぐろうとしたら、突然強い風が吹きました、足が止まりました。

目の前を桜の花吹雪が舞い、はっとしました。

「違う、先生は、やっぱり居ない。亡くなってる。」

その時、先生の声がしました。

「いってらっしゃい」

かつての、あのしっかりとした、鹿児島弁訛りの先生の声でした。