揺れ動かない信仰は本当に強いでしょうか。

一年間色々なことがありました。

自分自身の信仰を見つめる期間でもありました。

 

まだ、何も具体的なことは決まっていません。

それに、手続きの段階で色々手間取っていて、苦しい状態は続いています。

 

それでも、何らかの試験期間は終わったような気がしています。

 

今、振り返って思うのは、きっと一人に追いやられる時間が、私には必要だったのかもしれないということです。意味も理由も分かりません。キリストが荒野でサタンの試みに会われた期間、ダビデが荒野を逃げ回った期間、モーセの孤独の40年。

 

一人で窮乏に耐える時間が、必要だったのかもしれません。

実際には多くの支えを頂いていたわけですが、霊的な意味では孤独な歩みでした。

 

霊的な質として、自分なりに大切にしているものがあります。

それは気持ちに正直に、ということです。

 

揺れ動かない信仰は本当に強いでしょうか。

 

柳は風に揺れるから倒れません。

京都の五重塔は、倒れないようにではなく、内側の柱が動くように出来ています。

それが免震装置となって、地震が起きても倒れにくいようになっています。

 

私は大いに揺れ動きます。

むしろ揺れ動き過ぎるために、その弱さを相談したこともありました。

 

神経質過ぎて、人よりも倍のストレスを溜め込みます。

考え過ぎて、不安になります。

 

「気づかないならば、私は痛みを感じることもないでしょう。どうして神様は私にこんな感性を与えられたのか。なぜ、傷つきやすい私を選ぶのか。」と相談したことがありました。

 

すると、先生は言いました。

「見えるということは、恵みです。人よりも多くのものを感じるならば、受け取る痛みも多いでしょう。しかし、だからこそ分かることも多いのです。それが、あなたの強みです。」

 

以来、私は受けるものは受けっぱなしにすることにした。

 

悩むなら悩み、へこむなら凹んだ。

むしろ、そこからどのように抜け出し、立ち直っていくのか、そちらを大切にするようにした。

 

私は揺れ動くことが不信仰だとは思わない。悩むことが人生の無駄だとも思わない。

 

いつも、それがプロセスだということを知っている。

 

私は、長いグレーゾーンを耐えることが出来る。

人の悩みや苦しみの過渡期を理解することが出来る。

 

神様が見えなくなる時も、理解できない悲しみや苦しみが重なるときも、厚い曇り空のどの方向に神様がいるかを嗅ぎ分けることが出来る。

 

苦しみの山頂から、透き通った世界が見えることを知っている。

そういう世界の住人たちが少なからずいることも、

私が自分の弱さや痛みに向き合うことが、誰かの回復につながることも。

 

私は弱い。

 

弱いけれども、沢山の色彩を持っている。

 

 

私には私にしか分からない世界を委ねられているのだから、存分にその世界を旅すればいい。

それが、闇だろうと、淵だろうと、与えられている感性に従うことが、私の役目である。