「成功の神学」の残骸

分からないことがある。

 

これまで、リーダシップや、教会成長のことについて自分なりに情報を集めてきてみたのだが、私のやりたいことは、教会の健全さの保持であり、リーダーシップそのものではない。

ただ、分野が珍しいものなので、これ一つで学科ということにはなっていない。

少なくとも、これで3年近くは同じような分野でアンテナを張ってきたことになる。

この関連のメッセージや雰囲気を観察する時、微かな何かを感じる時がある。

 

どちらが悪くて、どちらがいいとか、そういうことは言うつもりがない。

 

でも、私自身が目指していることを考えると、確かに方向性は違う。

 

私自身のモットーとして大きな要素を占めているのは、「希望の神学」である。

以前に書いたかもしれないが、どのような状況でも希望を灯す、そんなメッセージを、生き方を伝えるというのが、私のモットーだった。

それはこれからも、きっと変わらないと思う。

 

教会成長とか、なにかそういう関係のあり方、特にアメリカのメガチャーチのそれを見ると、時々「成功哲学」のそれを感じる。

ビジネス書に見る流れである。

 

恐らく、国民性というものが、メッセージにも色濃く反映されているのかもしれない。

それを世的であるとか、不純であるとか言うつもりはない。それも、教会が元気であるためには必要なことだから。

 

しかしそれは、なにか言い換えると「成功の神学」とでも言えるような感じである。

成功するための、拡大するための、繁栄するための、きわめて論理的な方法論。

 

で、時々何か…、

「成功の神学」の残骸を見るような思いになるときがある。

 

成功哲学では…実のところカバーできない部分が発生する。

すなわち、答えることが出来ない、忌避される部分が発生する。それは「失敗」である。

 

不調、右肩下がり、暗黒、沈黙、これらは「成功の神学」では忌み嫌われる部分である。

 

常に成長、常に明るく、常に元気で、常に健康、前向き、感謝、希望、のエンジンをふかし続ける。

いつの間にか、教会からそうでない人が排除されていく。

 

離婚したら、事業に失敗したら、問題が起きたら、「成功」グループから切り落とされていく。

 

そのような精神性を生み出す危険性がある。

 

いつも思う。

 

教会が教会である所以とは何なのか。

 

私は、教会とは人格がキリストに似ていく場所だと思っている。

もしも、教会が一人一人の旅路に、内的な過程に光を与える場所でなかったら…何の意味があるんだろう。

 

ドラッカーの理論に帰るとするなら、組織を本当の意味で発展させるためには、ミッションに忠実であること、そして集中すること。

 

だから…私が教会の第一ミッションを霊的人格形成に置くとするなら、教会成長、拡大というものに中心を譲らないように気を付けないといけない。

私自身の生き方が、いつの間にか「成功神学」にならないように。

 

小さいものに寄り添う。

弱いものに、苦しむものに、悩むものに、

失敗に、挫折に、成功に、希望に、根源的に、キリストがしたように。

 

私は希望の神学を、生きていきたい。