牧師のありがたさ -ケアされて分かったこと
最近2人の先生から話を聞く機会がありましたので、ちょっと箇条書きにでもしておこうかと思いまして。
1人目は、この一年私のカウンセリングに当たって下さったM師。
カルト対策専門の先生ですので、完全に神様との関わり、教会との関わりについて方向性を見失って大混乱していた私の指導に当たって下さいました。
この先生の元で有り難かったことは、十分な待ち時間を取って頂いたということです。
結局それが一番の回復の近道になるんだな、とは今振り返って思う話です。
信仰について、混乱することは多々あります。
でも、その状態をすぐに否定されたり、あってはならない状態だと責められても、何にも助けにはならないんですね。
この先生は、私のそんな状態が一時的であるということを見越して、待ってくれました。
なんかおおよそ関係ない話や、自分の教会の話も入れながら。
自分が牧師先生方の助けを受けて、改めて牧師の偉大さというものを思いました。
牧師はね、牧師なんです。
とんでもない輩もいる一方で、しっかりした魂の医者たちがいるのも確かです。
神学校で、教えてもらったことがあります。
あんまり、公言はしたことがないのですが、牧師と、信徒は違う、と、
それは、牧師は特別だ、とかいう意味ではないと思います。格別に愛されているとか、優れているとか、そういうことじゃないと思うんです。
違いっていうのは、魂を扱う人間には、扱う人間のための特別な過程、養い、視点があるということです。その立場にならないと、見えない風景があります。
すごく長く、苦しい立場を通ったため色々な人から励ましてもらうことがありました。
でも、傷口に塩、みたいなこともありました。
牧師はね、その点やっぱり違うんです。
見てる距離の長さが違うんです。
牧師の霊性は、群れ全体の質を左右します。
自分一人が満足いく霊性ではなく、群れの全てのメンバーの状態がよく保たれる状態を選択していかないといけません。一人なんですけど、一人じゃないんです。
私が触れてありがたかった牧師というのは、人の歩みの結果を即席に求めたりしませんでした。
必要な時に、必要な餌をスッとおいてくれるような感じでした。
忙しいから、でも、ちゃんとタイミングを見ています。
そう、このタイミングを外さないというのが職人技を見るような思いでした。
早すぎず、遅すぎず。必要な時に、必要なものを与える。
その時その時の限定的な状態で判断するのではなく、人生の総トータルの視点から見ているということが分かりました。
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私はこれまで、常に何らかの先生の指導を受けてきました。
職人と一緒で、先生のやり方を見ることで、その技術を身につけられると思うから。
これは実に面白い作業なんです。
自分よりも優れている人たちの技を見せてもらえるのですから、内心は闘争心メラメラです。
自分が、そこに届けていない、自分の知らない霊性を扱う技術を持っているというのが、もう何というのか悔しさ満点。優秀な先輩たちの背中を追っています。
そんなすごい人たちに出会えるというのは、本当に大きな恵みです。
まだ見たこともない、霊性の怪獣たちにこれからも出会っていきたい。
どんなとんでもないレベルの牧師がいるのかと思うと楽しみです。