1年間教会でお世話になったT先生の話

一年間教会でお世話になったT先生は霊性に注目した牧会をしています。

何もしないがモットーです、を地で行くような運営。でも、その雰囲気に癒されて、人が続々集まっている。

 

何もしない、とはいうけれど、それは信念としての敢えて「何もしない」であり、実際には来会者がくつろげるような配慮がそこかしこに施してある。

礼拝出席を強要、鼓舞しない。

会員を何らかのグループ、活動に組み入れようとしない。

むやみやたらに奉仕や教会活動を入れこまない。

人を束縛しない。

 

あちこちの教会で傷つき、放浪してきた人たちが定着している。

 

ここにいると、かつての行動主義の教会が何だったのだろうと思う時がある。

 

網の目のように集会を入れ込み、イベントに躍起だった。

でも、何もしなくたって、人は集まってくる。

 

礼拝出席強調しなくたって、離れることはない。

礼拝中にパワーポイントのスライドが動かなくたって、歌詞が出なくたって、週報の内容が同じだって、内容が間違えていたって、別にどうってことはない。

 

週報の内容を漢字一文字間違えて、朝から血眼で修正作業。

プログラムの順番を間違えたといって、副牧師に謝るように指示していたっけな。

私の熱心さが足りませんでした、と言って泣いて謝っていたあの先生、あの教会。

 

それが、神の教会だなんて。私は、そんな教会嫌だな。

 

さて、話がそれましたが、先日の集会でT先生はこんな話をしていました。

 

人生に起きる出来事を受け止めるときには、3つの段階がある。

 

それは、受容、結合、発展の3つの段階だ、と。

(すみません、ちょっと単語を記憶違いしているかも)

 

 

「受容とは、起きた出来事を受け止めるということ。

その時に、意味を見つける必要はない。

むしろ、自分は無理に意味付けをしない方がいいと思っている。

 

何か悪いことが起きる。

すると、クリスチャンは、これは何か自分が罪を犯したからか、とか神様からの懲らしめなのか、とか、耐えなければいけないのか、試練から逃げてはいけないのではないか、とか考える。

 

でも、もしかしたら、その出来事は、神様から与えられた人生の物語の、別の部分につながっているのかもしれない。

それが、いいことなのか、悪い事なのか、その時には分からないということが多い。

英語では、It was just happen. という考え方がある。

それは、単に起こったんだ。

 

単に受け止める。それが受容、とう段階。

 

次に結合。

人生には色々なことが起こるが、後々になって思わぬ経験が生きてくることがある。

何と何がつながるか、分からない。

でも、徐々に見えてくる。それは、他人が結びつけるものではない。

自分で分かるも、自分で発見していくものだ。

バラバラの、まるで無関係に見えた出来事が、連続性を持つ、意味を持つものとしてつながっていく、それが結合、という段階。

ほら、最近ドラえもんの映画の主題歌で流れてるじゃない。

 

「♪ガラクタだった思い出が、二人なら宝物になる~」って。

なんでこんな事が自分の人生に起こるんだろう、って出来事が、つながっていって、豊かになっていくんだ。

繋がるものは、いまではなく、先にあるのかもしれない。

 

最後に、発展。

一つ一つがつながっていったときに、自分で「あぁ、そうだったのか」って納得できる時がやってくる。

さらに、どういう意味を持つのか、もっと大きな理由が見えてくる。

未来につながっていく、そうなったら、経験は強いよ。

そうなってきたら、出来事はバラバラの、単なる悲しい出来事、ではなくなってくる。

一つ一つがつながって、神様の計画の一部を担っている、ってことが分かるようになるんだ。

 

だから、いま課題があるなら、無理に理由を見つけようとしなくていい。

それは未来につながって、もっと大きな世界へあなたたちを連れて行ってくれるかもしれないから。

 

苦しみに、意味を見つけたくなるのは、自分だけじゃない。

意味を付けようとしてくる人もいるだろう。

あなたがこうだから、こうなんだ、とか。

 

そういう人からは、距離を持っておいたらいい。

あぁ、この人は、こう思うんだな、と思っておけばいい。

自分がそう思っていたら、そう言われたときに、動揺するから。

 

受容、結合、発展。

人生を、問題を大きな視点で考えるように。」

 

 

大体こんな内容だったと思います。

 

 

 

人間って、理解できない事態には弱いなと思います。

 

意味を欲しがる。

 

時々、神様よりも先走って、もしくはとんだ見当違いな意味付けをする。

ヨブ記の友人たちみたいに。

 

広い視野で、人生を受け止めていく、自分の人生も、人の人生も、

学ぶべきだった、学ばなければならない、と思います。

1年間教会でお世話になったT先生の話” に対して1件のコメントがあります。

  1. うめぼし より:

    > 私の熱心さが足りませんでした、と言って泣いて謝っていたあの先生、あの教会。

    キャー!!!誤字脱字パワポ間違い定期的にありますが何か。

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