ジャッジメンタルから自由になる
どの本だったのか、忘れてしまったが、ヘンリーナウエンが、ジャッジメンタルから自由になる、ということを書いていた。
初めて読んだときは、一体どんなことか分からなかった。
しかし、気がつけば、私の対人関係を支える大きな柱になった。
ナウエンは他者をジャッジ、審判するような見方をしなくていいと知ったとき、非常に自由になった、と言っていた。
この人は、こんな人であろう、とか、私のことをどう思っているのか、とか、良く思われているのだろうか、とか、この人はこうであるに違いないとか、この行動はこういう意味を持つに違いない、とか、そんなことを考えなくてもいいわけだ。
自分のことに照らし合わせて、私がもし、こんなラベル付けをしている、なんて思ったら、きっと誰も私と話したいとは思わないだろう。
逆に、もし私がラベル付けされる側だったら、とてもリラックスはできないので、表面的な事しか話さなくなるだろう。
私の思い込みは、時に外れ(大体外れ)、思い込みに基づいた行動は、相手を混乱させる。
相手にしてみれば、何の思い当たる節もないのに、不思議な行動を取られるのだから。
だから、私は出来るだけ判断しない。
必要に迫られない限り。
あの人がこうなのは、霊的にこういう状態だからだ、とか、そんな危険な場所に立ち入らない。
まして当人にそんなことは絶対言わない。
ジャッジメンタルから自由になる。とても心が軽くなる。
その人の信仰がどうであるか、なんて、神様しか分からない。
そこは、神様だけが知る領域だし、外れた推量で魂に触れるなら、神様から大目玉を食らう。
間違った処方箋書くようなものである。
私が信徒の立場なら、牧師にはその時々の状況を受け入れてもらいたいと思う。
1つの魂として、神様に対しても、そのまま受け入れていただけたら、嬉しいと思っている。
生きていく中には、成長の過程として、春の日も、冬の日もある。
その一つ一つをジャッジする私ではなく、見守る私であれたらと、思っている。