回復の過程-神のタイミングに自分を合わせる
私は19歳から、ずっと教会を中心に生きてきました。
それが、昨年フリーになりました。
神学生として、牧師として、教会で働かなくていいわけです。
一信徒として、心からのびのびさせてもらいました。
教会では、いつも自分がケアする立場、使える立場としていたわけで、そのスイッチを働かせなくていいなんて、もう嬉しすぎて日曜日が開放感に溢れてましたね。
牧師業病んでるわー。
神学生、牧師としている自分というのは、偽っているわけではありませんが、完全に仕事モードです。
他の牧師仲間と話していた時に、「そうだよ、日曜日っていうのは、営業モードなんだよ。自分なんか、つい「いらっしゃいませーーー!」って言いそうになる。」と言っていた。
全く同感。
神学校で日曜日は嘘でも笑っとけ、って教育されてんだから。
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そんな対人関係重視の仕事に、私は向いていないと思います。
「牧師に向いてないじゃん」と言われたことがありますが、同感です。
本当にそうであることは、自分がよく分かっていますから。
ただ、自分としては、向いているから牧師になったのではありません。
向いているから、今ここで勉強しているわけでもない。
これまでも、これからも、私がここにいるのは、神さまが呼ばれたからです。
人間として向いているから、神さまの働きが出来るわけではありません。
そして優れているから、神さまの働きが出来るわけでもありません。
「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。
彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。… あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」
【主】はモーセに告げて仰せられた。
「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。」民3:6-12
召命というのは、私にとって、名誉なことでありますが、一面恐ろしいことです。
畏怖の方の畏れですね。
好きでやっているとか、向いているとか向いていないとか、そういうことじゃないんです。
それはまるで、いつもあることですが、神の祝福がいつも共にあり、そして、振り返れば「抜身の剣を持った天使」が後ろにいる感じなんです。(ヨシュア5:13-15)
だから、祝福もいっぱいなんですが、ドロップしたら、後ろからとんでもないものが追いかけてくる感じなんです。(ヤコブ3:1 )
その感覚は、クリスチャンなら誰でもという事ではないと思います。要求されるものが上がります。
レビの一族は、多分主の幕屋の恐ろしさを誰よりも知っていたと思います。
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回復の過程に向けて、私は呼吸を整えています。
それは、神さまの歩調とペースを合わせることです。
神さまのタイミングと合うように。
自分でも焦り、人からもなんやかんやと言われましたが、心の何処かで分かっているんです。
今ではないということが。
どれだけ考えても分からない。分かりそうで、分からない、何かがある。
でも、そう遠くなく、分かりそうな気がする。
神さまが、良いとされるときに、私は何かを見つける。
それまでは、私は自分を欺くことが出来ない。
回復したふりも、解決したと思い込むことも、焦ることも、逆に傷を深くしてしまう。
だから、私はじっと座っています。
自分の弱さにつまづきながら、風が運んでくる、季節が変わる匂いを感じようとしています。