Sanctification Gap 2 – Richard Lovelace の論文

本日、霊的ギャップの2回目。

 

3ヶ月前、スピリチュアル・フォーメーションの授業が始まったときには、一体何が始まったのかと、チンプンカンプンでした。

 

なので、暫く皆様にも何か筋道が見えない話をするかも知れません。

私の力量の無さのせいです、忍耐下さい。

 

”Sanctification Gap”の由来となっているRichard Lovelaceの論文のご紹介です。論文は、出来たら全文翻訳して、日本語で読める形にして配信できたらいいなぁ!と思っていますので、その時に全文読んでください。著作権とかもあるので、教授に聞いてみないといけません。とりあえず、このシリーズでは、全体の流れをつかみたいと思います。

まず、このRichard Lovelaceが信仰を持つに至った流れと、その後どのような神学的理解をしてきたかが書かれています。

Lovelaceは元々エール大学で哲学を専攻しており、在学中にThomas Merton(アメリカで影響のある信仰者の一人として数えられているカトリックの祭司)の、”The Seven Storey Mountain”(1999)を読んで信仰を持ち、カトリックの霊性に傾倒します。

“The Seven Storey Mountain”(1999)

自分の罪性に気がついたLovelaceは、神と自分との間に深い溝があることを理解します。その深い断絶を解決するべく、奮闘の末、ルターが奮闘した問題に直面、と書いてあります。

即ち、カトリックであると、沢山の日課とか、祈りとか、修行とかによって神に受け入れられるきよさを保とうとするので、それらの日課では乗り越えられない、罪責感に苦しんだのだと思われます。

 

というわけで、周りにプロテスタントの友人がいたので、プロテスタント教会へ。プロテスタント教会が持つ、信仰復興の歴史の中に、より深い霊的修練の文化が受け継がれていることに気が付きます。

 

しかし、ドイツの敬虔主義、イギリスのピューリタン運動、信仰復興運動など、多くの霊性の復興、リバイバルの歴史を持ちながら、プロテスタント教会がそれらの霊的形成の遺産に無頓着であることに、驚いた、と書いています。

即ち、カトリックでは”Spiriitual Theoligy”(霊性神学)という分野が確立されているのに対し、プロテスタントの学者たちは、多くの活動の実績があるにも関わらず、自らの霊的形成の流れというものに自覚がない。

カテゴリーがないから、整理もされていない。

 

しかし、カトリックからプロテスタントに罪の解決の理解を求めに来たLovelaceにとっては、プロテスタントの霊的形成の道のりに興味があった、というわけです。

しかし、学問として確たる整理がなされていなくて、びっくりしたと。

 

そこでLovelaceはプロテスタントの歴史の中に見る、霊的形成の流れを自分で研究します。そして気づいたことは、プロテスタントの学者たちは、実際の信仰生活と、理想の間にギャップがあるということ、”doubly true”が起きていることを認識しているということでした。

 

以下、初めて”Sanctification Gap” という概念が出てくる下りです。

 

“There seemed to be a sanctification gap among Protestants, a peculiar conspiracy somehow to mislay the tradition of spiritual growth and to concentrate on side issues. ‘Liberals’ sought to commend Christianity to its cultured despisers, and to apply its ethics to social concerns. ‘Conservatives’ specialized in personal witnessing activity, sermons on John 3:16, and theological discussion of eschatological subtleties.”

Sanctification Gap” By Richard Lovelace

大まかに意訳しますと、

”プロテスタントの間では、共通して霊的成長をなにか、別の問題に置き換えるという、特有の霊的ギャップが起きているように見受けられる。”自由主義”はキリスト教を文化的に見る、懐疑的な学者たちの評価を受けようとし、”保守主義者達”はヨハネ3:16を個人主義的な信仰として教え、神学的な議論は、終末論に終止している。”

 

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…私の理解ですと、Lovelaceはリベラルも保守主義も、個人の霊的成長を考える上では、脇道にそれてしまっていると言っているのだと思います。リベラルは、聖書の聖典性とか、権威を調べる方へ傾倒し(学問的な)、プロテスタントは、個人主義が背景にある、解釈の仕方に終止していたり(これはまた、次回補足をしますので)、終末論に走りすぎていたり。

 

主に、恐らく自由主義神学が盛んになっていた1920年台から1970年の間に起きていた双方の特徴だと思うんですね。この間、保守主義の方では、”福音派”のムーブメントが活発になってきたようです。

この当時の動きは、第二次世界大戦で日本が敗戦して、戦争が終わったことも相まって、「クルセード(聖戦)」とか「伝道」とか、非常に外向き、大衆伝道が活発だった時期です。

 

その喧々諤々の間で、プロテスタントの霊的形成というのは、時代的には、伝道活動と一致していた。「伝道活動=霊性の形成」のようなことになっていたのではないかと。

 

ということは、今の日本の様々なキリスト教の指導者層というのは、この福音派ムーブメントが盛んな時に、留学していたということになるのでは。今の60代位が、20~30代の頃ですから、30、40年前です。1970年~80年台。自由主義と福音派のガチ対決から、次の時代に移り始める時代です。

 

当時学んだ先生方となると、系統的には、自由主義神学へのカウンター、アンチテーゼとしての”福音主義”、保守的、かつ、外向き伝道に力を入れるということです。

 

 

ちょっと、この辺の流れが、Lovelaceの論文に記述がありますので、また明日続きをやってみたいと思います。