Sanctification Gap 3 – Richard Lovelace の論文 2

今日もやります。

 

昨日からの続きで、近代のプロテスタントが霊的ギャップ、神に近づくために、どのようなアプローチをしてきたのかという、Lovelaceの研究結果です。

 

と、言ってもこの下りはとても短く、概略的にまとめてあります。

しかし、アメリカのプロテスタント運動の流れをよく知らない我々日本人にとっては、よくわからないが、しっかり知りたいところなので、ゆっくり進めてみたいと思います。

”Not that the gap was not being filled in some quarters. Enclaves of “deeper life” teaching in various conferences sought to hang on to the revival tradition.”

(プロテスタントによるリバイバル運動が、霊的形成にはつながらない方向性に走っていたとは言え)「次の数十年の間、霊的ギャップの問題が放置されていたわけではない。リバイバル運動の歴史の中で、様々な伝道集会が”深い霊的生活”の教えを受け継いできた。」

 

 

“Pentecostalism, and later the charismatic movement, offered models of vital Christian life through which many satisfied their hunger for communion with God.”

「ペンテコステ運動や、カリスマ派の運動は、活き活きとしたクリスチャン像を人々に教え、神を求める多くのクリスチャンの霊的な飢え乾きを満たしてきた。」

 

 

“Free-style movements stressing prayer or Christian experience sought to transcend the theological battle-lines in the church.”

「祈り、または霊的経験を強調する福音自由の立場の教会は、神学的な論争を越えようとした。」

 

 

”Psychedelic experimentation in the youth culture during the 1960’s seemed to be another inarticulate expression of the parching thirst for spiritual reality which young people were not finding in standard-brand churches.”

「1960年代に若者の間に広がったサイケデリック(恍惚状態)の霊的ムーブメントは、伝統的な教会では、若者たちの内にある霊的な飢え乾きを満たすことができなかった、ということを示唆しているだろう。」

 

 

”On the brink of the 1970’s, as denominational leaders moved more and more toward secular theologies and ministries of social relevance, the secular city itself seemed about to pass the church going in the opposite direction, searching for oases of living water in the deserts of technology.”

「1970年代になり、各宗派のリーダーが世俗的な神学や、社会活動の方へ傾倒していった。一方、近代社会は、不毛な近代科学の分野に命の源を見出そうと、世俗社会へと逆走している教会には関心を示さなかった。」

 

 

***************

 

意訳ですので、朦朧としながらやってますんで、色々と許して下さい。

 

こうやって、プロテスタントのリバイバルの時代の流れと、当時の霊的形成への取り組みを見ますと、その、私達にとって、当たり前だと考えている霊的形成の考え方が、とても文化的、時代的な影響を受けているものだとういことが分かります。

 

現在のスピリチュアル・フォーメーションも、これまでの流れの反省を込めた、一つの流れかもしれません。スピリチュアル・フォーメーションは、カトリックの内省的な霊性への取り組みと、プロテスタントの知行合一を求める霊的生活を混合させたようなものです(言い方悪いですね(笑)このへんの議論は、次のテーマの『Life in the Trinity』で取り上げます)。

 

何はさておき、振り返ってみましょう。

果たして、私達の神学の、また神学教育の中で、霊的形成はどんな風に考えられているのか。

その、無意識の、まるで文化のような。

霊的形成は、スピリチュアル・フォーメーション独自の概念ではありません。それは、聖書のテーマと言ってもいいほどのものです。私達の人格がどのようにして、キリストの中にあって成長していくか、

キリストに似ていくか、その過程をどう考えているのか、ということです。

 

Lovelaceの論文は、この後、キリスト教の各宗派が、この神に似たものになっていく過程を、どのように考えたか、ということを挙げていきます。

 

一つ、先にご紹介します。わかりやすくなるように。

例えば、きよめ派は、「模範的」な生活を送ることによって、神と、私達の間のギャップを埋められると考えたのです。きよめ派の本質的な部分ではありませんが、メソジスト派の特徴と言える、一歩間違えて律法主義者と言われる、あの無数のルールです。

 

あの服装とか、世俗的なものから離れるようにとか、あのルールです。

 

きよめ派は、それらのルールを守ることによって、神と私達との間にあるギャップを埋める、神に似るものになっていくものだと、考えているのです(何度もいいますが、きよめ派の本質的でない部分に囚われた結果です)。

 

*************

 

そう考えると、ちょっと振り返ってみたくなりませんか。

 

一体、私達の考えている霊的ギャップを埋めるためのアプローチというのは、どこから来ているのか。

それは…それが非常に文化的、歴史的なものだとしたら。

 

伝道活動に自分たちの、霊的な熱心さがかかっていると思っている、その何かの背景が紐解けてくるような気がするんです。

 

活動は、私達の霊性を形成するのか。

 

もしも、工程と結果の因果関係がつながっていないとしたら、聖霊の実が結ばれない理由が見えてくるのではないかと…。

 

まだLovelaceの洞察は続きますので、続きはまた明日。