1年半ぶりに、教会で祈ることが出来るようになりました。

 今日はですね、自分としてはとても嬉しい日になりました。

たまたまなんですが、今日で、私が洗礼を受けて13年目です。

 

実は1年半振りに祈祷会に出てきました…!

今行っている教会がメソジスト系の日本人教会なので、賛美やプログラムが似ています。

 

日本人の先生に伺ってみた所、長丁場なので、基本的に日本人教会に連なりながら、あちこち調べてみたほうがいいだろう、ということで、こちらを拠点にしています。

 

今度の日曜日とその次の日曜日、目的があって別の教会に行くので、2週間も顔を出さないのは嫌だな、と思い、代わりに祈祷会に行くことにしました。

 

祈祷会に出るのは1年半ぶりです。某教会を出てから、教会に対して不信感をもち、教会活動を避けるようになっていました。

以来私は、教会で祈ることもないし、好き好んで人と話すこともありませんでした。

教会の中では、ただの群衆でいたかったんです。

 

祈ることが出来るのかが分かりませんでした。

いや、祈れませんでした。

 

外では、個人的には、祈ることは出来ましたが、教会では無理でした。

 

昨日、面白いことが分かりました。

また、いつかご紹介したいのですが、今実際的な霊的訓練について実習中です。

実際的な、と言っても、神学校を出ていたら、叩き込まれていることですが、毎日のお祈りとか、日課とか、そういうことです。

 

私は毎朝お祈りの時間を持っているので、そのままそれを黙想の時間にしました。

それで、去年はどうしていたのかと思ったのですが、何も思い出せないんです。

 

何かしていた、祈ろうとして祈れなかった、聖書を読もうとしたが、読むことが出来なかった、何かそんな事は思い出せるのですが、詳しいことが欠落したように思い出すことが出来ません。

一体何をしていたのか…。つい数ヶ月前のことなのに。

 

それで、思ったんです。きっと、神さまが守ってくださっていたんだな、と。

私が自分を必要以上に責めないように。

 

祈るということを困難にしている一つの要因が「声」でした。

 

私は、自分の「声」を聞きたくないんですね。特に祈る声を聞きたくない。

 

一体「声」が何を思い出させるのか分からないのですが、それが恐怖でした。

 

最近ようやく賛美歌も歌えるようになってきたところです。

「声」は、ここにいる、というサインなのかもしれません。

 

今日は祈祷会に出ようとは思いましたが、祈ることが出来るかが分かりませんでした。

祈ると、自分が潰れてしまいそうでした。

 

 

でも、今日は祈りの輪に支えられて、多くはありませんでしたが祈ることが出来ました。

 

当たり前にやっていたことが、出来ない。

ひどく苦しみますし、恥ずかしく思います。

 

でも、少しずつ、少しずつ、神さまが与えてくださっているステップの中を進んでいます。

 

ということで、久しぶりの祈祷会に出て、今晩は精神的に疲れているのかもしれません。

 

休みます。

お疲れ様でしたー。