期待に応えない

著作者:Pai Shih 提供:GATAC

自分が歩いてきた道が正しいとは思わないけれど、よく生き残ってきたほうだとは思う。

なにか自分なりの信念を貫き通してきた。

決してかっこいいやり方でもなく、賞賛される生き方でもない。

周りを傷つけ、大切にしたい人も失ってきた。

でも、振り返れば、今のタフさは、どれだけ多くの人を失望させてきたかに比例している。

多くの誘惑は、人に認められたいという欲求に訴えかけてくる。

受け入れられたい、良い信仰者だと言われたい。

仲間に流石、素晴らしい信仰だと言われたい。

 

模範的な信仰者としての評価に添って自分を変えていった人もいた。

どっちが悪くてどっちがいいということでもない。

それはその人の、また私自身の生き方だ。

 

だが、人の期待というものは、神の期待と合致しているわけではない。

特に、人の期待するタイミングは、神のタイミングよりも早い。

 

最短ルートで期待値まで行きたいようなのだが、人の成長は思うよりも遅い。

小さな子供に、逆上がりをしろと言っているようなものだ。

 

神のタイミングに至るまでは、人というのは、もがいても、次の段階に行くことは出来ない。

指導者として立つまでに80歳までかかったモーセや、牢屋でかなりの期間を過ごしたヨセフのように。

 

私達の霊的な成長は、私達の努力だけにかかっているわけではないのだ。

 

そう考えるほうが自然だろう。

私達の努力だけで、また努力次第で成長する信仰というのは、合理的に聞こえるが、

神が働く余地がない信仰というもののどこに、神の恵みが注がれるのだろうか。

 

大切なことは、神のタイミングに私達の呼吸を合わせることではないだろうか。

神のタイミングは、私達が思うよりも、遅いかもしれない。

人間的なタイミングを逸しているかも知れない。

 

キリストの到着が遅れたラザロのように。

 

しかし、時が来れば、神の計画はピッタリと、最善のタイミングで進められるのだ。

 

だから、人の期待に振り回されないこと。

 

それが自分が思う神のタイミングと違うなら、

人を失望させたらいい。

 

それよりも、神のタイミングを嗅ぎ分けられるように、霊の感覚を研ぎすませたほうがいい。

人の期待に応えないという選択をするほうが、クリスチャンにとっては相当に困難なのだ。

私たちは、どうやって「模範的な」クリスチャンとなるのだろうか。

 

…それは、「模範的」な生き方をすることではなく、神が私たち一人一人に備えられた信仰の段階を丁寧に生きることによってではないだろうか。

荒野なら荒野を、牢獄なら牢獄を、喜びのときは喜びを、幸せを。

 

期待に応えずに生きてみればいい。

それでも、受け入れてくれる人もいるものだ。

必ず、そんな人に出会っていく。

それは、豊かな人生だ。

 

そうして、自分を確認していく。

神と息づかいを合わせていく。

 

神とともに歩いて行く、信頼関係が築かれていく。