Sanctification Gap 7 – Richard Lovelace の論文 6

著作者: Brett Jordan 提供元:GATAG

翻訳作業、ちょっと期間が空きましたね。

今日レポートなんとか出せましたので、継続して翻訳します。

 

何か、長くなってきて、着地点が遠い。

さらっと通りたいところが。

実際の授業では、1回で終わりですからね、もう何がなんだか。

 

一応シリーズ全部終わったら、まとめを作ろうかな。

前回のリトリートもね。

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1.”Beginning in 1901, however, the more spectacular development of the Finney-Moody concept of the baptism of the Spirit began to flower into modem Pentecostalism. ”
「1901年に始まった、FenneyとMoodyの考え方に基づいたバプテスマと聖霊の考え方は、現代のペンテコステの動きの中で発展し始めた。」

 2.”This left some of the American church filling the sanctification gap with a Pentecostal experience, and some of it adhering to the strain of progressive sanctification developed in the deeper life movements.
「聖霊経験を経ながら、霊的ギャップに悩まされることになった幾つかのアメリカのペンテコステ教会と、霊的なきよさを追求する人々によって、深い霊的な生活を求める運動が発展した。」

3.”But in far too many fundamentalist churches, little emphasis on sanctification remained at all, except in terms of adherence to a cultic legal code of “separation” inherited from the Puritans.”
「しかし、多くの教会が非常に原理主義的で、きよめについては、ピューリタンの文化から受け継いだカルト的な合理性、”分離”すること、を除いて、多くが説明されないままに残された。」

4.”What was best in Puritan mysticism was forgotten, and what was most questionable was kept. ”
「ピューリタンの最も優れた霊性は忘れられ、逆に、最も疑わしい考え方が残った。」

5.”It is hard to overestimate the damage done through this traumatic loss of bearings in the Protestant tradition. ”
「プロテスタントの伝統において、この恐るべき損失による、霊的損害を差し測ることは難しい。

6.”One effect was the division of sensibility in the churches since the time of Moody, in which socially concerned churchmen have found themselves pitted against fundamentalists concerned mainly for conversion and code moralism. ”
「Moodyの時代以降の教会で、聖職者たちは、原理主義的な改心と道徳主義の考えに反対し、奮闘していることに気がついた。これは、Moodyのリバイバルの時代以降に教会内で始まった”分離”のアイデアが与えた一つの影響である。」

7.”Walter Rauschenbusch, for example, was rooted in the older tradition of experiential Christianity, but was forced to abandon it for a Ritschlin an theological model because the current revivalism bad short-circuited social concern by neglecting sanctification.”
Walter Rauschenbuschは、たとえば、伝統的な霊的経験に基づいた信仰生活にもとづいていたが、一つの神学的モデル、Ritschlinのため、にそれを放棄することを強いられた。
なぜなら現代のリバイバリズムは、聖化を怠ることによって、社会的な問題に対し短絡的な捉えかたをしたからである。」

 

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ますます分からなーい。

Walter Rauschenbuschって誰だい。バプテスト派の自由主義神学の神学者だって。バプテスト派ってだけでも、分からないのに、自由主義神学まで入ってきた。

知らん、もうとにかく、行けるところまで恥も外聞もかなぐり捨てて進みます。

 

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3.”But in far too many fundamentalist churches, little emphasis on sanctification remained at all, except in terms of adherence to a cultic legal code of “separation” inherited from the Puritans.” 4.”What was best in Puritan mysticism was forgotten, and what was most questionable was kept. ” 5.”It is hard to overestimate the damage done through this traumatic loss of bearings in the Protestant tradition. “

「しかし、多くの教会が非常に原理主義的で、きよめについては、ピューリタンの文化から受け継いだカルト的な合理性、”分離”すること、を除いて、多くが説明されないままに残された。ピューリタンの最も優れた霊性は忘れられ、逆に、最も疑わしい考え方が残った。プロテスタントの伝統において、この恐るべき損失による、霊的損害を差し測ることは難しい。」

 

興味深い。”分離”することと聖化とは、元々キリスト教の伝統の中では一致していないとしたら。分離は、パリサイ人(Greek: Pharisaios (Φαρισαῖος) 離れる、分離の意)の文化だよね。

死海文書を記したクムラン教団の人とか、カトリックの修道院などは、分離のアイデアを体現しているように思うけれども、キリストのあり方自体は、分離ではなく、むしろ、世の中に混じり、世の中で生きる方向性を持っている。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ1:23)

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ 5:32)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14 )

 

聖化とは、私達の内にある罪深さからの分離であって、根本的に他者や社会の中にある罪深さから身を守ろうというのは、中心的なメッセージではない。

もしも、今でも日本の教会の中に見られる、「自分たちだけが選民」とか、「社会は悪、ノンクリスチャンは悪」という考え方が、このリバイバルの時期の聖化の考え方にルーツがあるとすると、聖化の捉え方自体を、再考する必要があると思う。

聖書の、キリストの教える聖化とは、何か私達が考えている一定の型と一致していないのではないか。伝道会とか、見方とか、なにかそれを越えて、その先に、その後に。

聖化とは、混じり合いながらも達成されるものであり、隣人との関わりの中で愛を実践することにいよって成されるものであるとしたら…(これは、次のトピックの『Life in the Trinity』で取り上げます)。

6.”One effect was the division of sensibility in the churches since the time of Moody, in which socially concerned churchmen have found themselves pitted against fundamentalists concerned mainly for conversion and code moralism. ”
「Moodyの時代以降の教会で、聖職者たちは、原理主義的な改心と道徳主義の考えに反対し、奮闘していることに気がついた。これは、Moodyのリバイバルの時代以降に教会内で始まった”分離”のアイデアが与えた一つの影響である。」

聖職者達は何かが違う、と気が付いて取っ組み合っていたということですね。この上の文の、”code moralism.” 「道徳主義」って訳しましたが、これ、非常に大切です。”Moral temptation”というテーマで、後々紹介しますが、わかりやすくいいますと、「クリスチャンらしい生き方、考え方を身につけることが信仰だと思ってしまう誘惑」、すなわち、「道徳主義への誘惑(Moral temptation)」です。

Talbotの考え方は、モラリズム、道徳主義を身につけることではなく、神につながることが聖化である、という考え方なのです。段々、見えてくると、嬉しいのですが、なぜ、モラリズムから、霊性神学につながってきたかというと、Talbotが歴代「パリサイ人養成所になっていた」(教授の発言)からなのだそうです!

すなわち、卒業後の学生が、パリサイ人的な霊性を身につけて、実践の現場でトラブルに遭い始めた、もしくは引き起こし始めた。

リバイバリズムによって生み出された、一見「純粋」な信仰のあり方が、実際は信仰者の霊的成長を促さず、別のなにか違うものを信仰者の中に形成している、ということが結論として導き出されたということかもしれません。教授たちの長い間の研究の結果。

 

おそらくは、

  • 霊的傲慢さ(自分はきよめられ、完全である、間違えることはない、他の人をチェックしなければという姿勢)
  • 霊的な欠落感(受け入れられているという安心感がない、実際は安心感も、満たされているという感覚がない)
  • 道徳主義(クリスチャンらしく振る舞うことが大事であり、自分の実際的な精神的、霊的ケアを無視する。その結果、歪んだ人格が形成される。最終的にはパリサイ主義者のように、信仰熱心であると豪語しながら、世の中の人よりも愛がない人格が形成される。)

といった症状が、原理主義的な信仰熱心の結果です。

 

7.”Walter Rauschenbusch, for example, was rooted in the older tradition of experiential Christianity, but was forced to abandon it for a Ritschlin an theological model because the current revivalism bad short-circuited social concern by neglecting sanctification.”
Walter Rauschenbuschは、たとえば、伝統的な霊的経験に基づいた信仰生活にもとづいていたが、一つの神学的モデル、Ritschlinのため、にそれを放棄することを強いられた。

なぜなら現代のリバイバリズムは、聖化を怠ることによって、社会的な問題に対し短絡的な捉えかたをしたからである。」

これは、続きを見ないと、よく分かりません。見てもわからないかも。

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さてさて、とにかくまた明日。

お疲れ様でした。