弱さによって仕える

私はどうしても、人に弱さを見せるということが出来なかった。

(というのは嘘で、散々ここでぼやいている)

それでも、公には、弱さを見せることはしなかった。

表面に出てくるメッセージの、何倍も下に、まるで氷山のように、深い苦しみや混乱があるのだが、一般の信徒さんに受け入れられやすいように、水面からの上の部分だけをメッセージにしてきた。

 

そうしないと、とてもじゃないが、一般の信徒さんはびっくりしてしまう。

信徒さんまで、泥沼の絶望に巻き込むことはないと、思うからだ。

私の役目は、恵みを届けることなのだ。

そして、人に代わって悩むことなのだ。

でも、知る人には知ってほしい。輝くダイヤは、深い地面の下に埋まっているのだ。

講壇で見る輝きは、誰かが汗して苦労して、地面の底から運んできた恵みなのだ。

 

そこには、輝かしいストーリーも、バラ色の信仰談もない。

あるのか無いのかわからない宝を探して闇に下る闘いと、汗臭さと、絶望と、莫大な労苦があるのだ。

近道もなければ、効率的な道もない。誰も分からないのだ。

 

無駄だ、愚かだと言われながら、黙々と宝を探す者の背中を見て欲しい。

一体どちらが愚かなのか。

そうだ、勿論、宝を探す方だ。

その愚かなものが、誰も見たことのない道を進んでいくのだ。

愚かなものが居ない限り、見つけられない道を。

 

愚か者の屍を越えて、愚か者が宝を見つけるのだ。

磨かれたダイヤは喜ぶが、

その過程は耐えられない。

弱さに下る者は、けっして弱くない。

勇敢な旅人なのだ。

 

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キリストは、トマスに釘の跡がついた手を示された。

キリストが十字架にかかったという証拠だ。

リンチされ、侮辱され、裸にされ、晒し者にされて、敗北者となったという証拠だ。

なぜそんな証拠を、復活の肉体に残されたのだろう。

 

キリストは恥と苦しみの記録を隠すことをしなかった。

それをトマスに見せた。

トマスの疑いの証拠でもあった。

彼は、キリストの傷口に手を入れない限り信じない、と豪語したものだから。

黄泉の深みに下った傷跡だ。

そしてトマスは、自分の疑い深さの底に下った傷跡だ。

 

「痛み」によって、キリストはトマスに仕えた。

トマスは、「痛み」によって、キリストを知った。

 

弱さは攻撃を受ける。

クリスチャンは強くなければいけないと思われているからだ。

だが、勇気を持って、キリストの傷を身に受けよう。

キリストが受けた痛みを、受け入れよう。

 

私の弱さを、隠さないでいよう。

キリストの打ち傷によっていやされたのだから、

完全な、キリストに似ていこう。

傷だらけの内に、完成されよう。

 

キリストに似ていくとは、痛みを感じないものになることではなく、

痛みを感じるものになることだ。

キリストのように、傷と一致できる者になっていこう。

痛みを否定しないものになっていこう。

痛みを、回復されるものになっていこう。

痛みを感じるものになっていこう。

 

「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)

私も渇く。

全ての性質を自由に生きるキリストのように、

私も生き、

私の弱さによって、人に仕えていこう。