「無駄」を楽しむ

こちらに来て思うことは、家が広い。

建物のスペースがやたら広い。

そして、スペースが機能的ではない。

こんなに広いのに、収納スペースが無い。

家具がふんだんに豪華で巨大。

そして、人々、くつろぐのが大好き。

ソファーの上や、床の上、芝生の上が大好き。

 

土足の床の上に寝転ぶとは、衛生上どうなのかーとか、概念が違うのですネ。

日本は狭いスペースをどうやって機能的に使うか考えるので、限られたスペースにふんだんに色んな機能がついています。

例えば、台所には必ず、スポンジ置きと、タオル掛けくらいあると思います。

こちらは、調理台はやたら広いのに、シンクは狭いです。スポンジ置きがありません、そもそも置けるようなスペースがありません。そして、タオル掛けもありません。

洗面台もそうです。シャワーもホース付いてません。

 

話が逸れました。

 

でも、構内や図書館に行ってみて、この無駄に思える、勿体無いと思えるスペースが、人を休ませ、会話を楽しみ、考え事をし、宿題をし、祈り、聖霊を感じる空間になっているということに気が付きました。

教会のプログラムも、立ち止まって話す、交わる時間が取ってあります。

日本人には、勿体無い、効率的でない、と感じますが、その「もったいない」部分で豊かにされているんだな、と思います。

人の生き方にも、教会にも、聖霊が働く余地を空けるって、大事だなって思いました。

聖霊が働いてくれる余地を開けて考える、勇気がないと出来ないことだと思います。

 

人というのは、目的地に行けるまでの道を自分なりに考えて、一寸の無駄もないように、予定を詰め込みます。その方が安心だから。

自分で自分の問題を解決できなくても、焦らなくてもいい。

聖霊が働いてくれるから。

 

心配な相手がいても、焦らなくていい。

相手の人生も、聖霊が握っておられるのだから。

自分の人生も、くよくよしなくてもいい。

何を失っても、聖霊が共に居てくださるのだから。

 

人生の中にも、無駄なたまり場を沢山作る。

立ち止まって、人とお喋りするような場所を。

ソファーに沈んで、日が動いていくのを眺める場所を。

木陰の下で、揺れる木の葉をただただ眺める場所を。

私が動く時ではなくて、聖霊が動く時を楽しむ。

聖霊の動きに耳を澄ませる。