悲しみを抱いて
「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。」 ルカ14:1-4
弱さに寛容になれる。
なぜなら自分が弱いから。
悲しみを受け止める。
なぜなら、悲しみの中に立ち尽くした自分だから。
痛みを理解する。
自分も痛かったから。
弱さを抱きしめる。
悲しみの息遣いが分かるから。
無力さを思わない。
そばに居てくれるだけで、良かったから。
慰みものに、食卓の場に引き出された病人を
癒されたキリスト。
彼の痛みを、悲しみを、恥ずかしさを、
抱きしめられた。
パリサイ人たちの敵意の中で、
キリストが聴いたのは、水腫の人の
心の悲しみ。
悲しみは、人を汚しはしない。
悲しみを抱いて、
悲しみを抱いて、
私が何者であるかを生きる。
キリストに包まれて、
悲しみと痛みの中でキリストの愛を知る。
人の悲しみに会う時に、
キリストの息遣いを思い出す。
泣く人の心の声を聞く
いつの間にか、自分の痛みは、彼の痛みになり、
悲しみの輪郭に触れる。
心の声を聞く。
私の痛みは、人の痛みになり、
キリストに温められる。
恥の記憶は慰めの記憶になり
人の痛みは、キリストにつながる記憶になる。