宗教組織による嫌がらせは、魂に対する殺人である。

只今、2015年、私がカルト的な特徴を多く持つ教会で働いていたときの記事を、こちらに移している。

ざっと内容を確認しているが、とても辛い。

段々気力や力をそがれている推移が分かる。

記事を移すのが今の時期でよかったと思っている。いろいろな面で、立ち直ってきたから。

多分、数ヶ月前でも出来なかったかも知れない。

2015年、2016年は、書こうとしても書けなかった内容の記事が沢山ある。

書きかけの状態で非公開にしてあった。

幾つかは、今から続きを書いてみようと思う。

傷が深すぎて書けなかった。先のことも見えなくて。

先日頂いた、天理教の方からのコメントも読んで、私が経験したことが、私一人だけの問題ではないことを実感した。

あのテーマでは、他にもコメントを頂いているし、アクセス解析でも、読んでいる人が多い。

2015年地点のことも、そして2016年の混迷した精神状態のことも、今なら振り返って少し冷静に見ることが出来る。

だから、あのときのこととして終わりではなく、振り返って整理していきたいと思っている。

それがきっと誰かの役に立つ。

過去の記事を読みながら、いろんな組織のしがらみや、抑圧的な教え、パワハラ、モラハラの中に生きたわけだが、

宗教組織が行う精神的嫌がらせ、抑圧は、魂に対する殺人だと改めて思う

目に見えない殺人である。

信じる人の心を押しつぶし、感情を奪い、神に対する怒り・疑いを持たせる。

刑法には引っかからないかもしれない。警察にも捕まらないかもしれない。

でも、人の心を蝕み、人生を破壊する。

神はそれを喜んでいない。当たり前だ。

宗教組織は、それはあなたの問題だ、と言って、訴える人の問題を、その人の個人的問題にしようとする。

だが違う。

違う。

傷ついてぼろぼろになった羊を何人も見てきた。

数え切れないほどの相談を受けてきた。

自分自身も、有形無形の嫌がらせをうけてきた。

更には、違う宗教の人からも反応をもらうようになった。

日本の宗教界を蝕む病巣のような何かが存在している。

魂に対する殺人を繰り返させない。

宗教者自身が問題を解決できないのだとしたら、誰がやるというのだろう。

誰が魂を守るのだろうか。

神はこの責任を宗教者に問わないだろうか。