Sanctification Gap 14 – 霊性神学 4

さてー、サイトの引っ越しでまたしても分断してしまいましたが、John Coeの論文、引き続いて見ていきます。

(霊的形成のムーブメントに対し、色々な反応があったというところから。)

引用:John Coe ”Spiritual Theology: A Theological-Experiential Methodology For Bridging the Sanctification Gap” 6pから。原文を読みたい方は、こちらからダウンロード(英語、有料)。


「一方、神学が学ばれ、教会では多くの説教がなされ、聖書について豊富な研究が続けられながらも、神と神による働きは脆弱で、人々の霊的な成長の過程にある葛藤に対して、霊的な洞察と、実際的な適応を提示することに失敗している。

繰り返しになるが、私は大部分の牧師、神学者が人々の成長を世話し、多かれ少なかれ、実生活に聖書の教えを適応するように指導していると信じている。

しかし、最も神学的に優れた説教でさえ、霊的ギャップを解消するという意味においては、人々の日常の成長を支える知恵を提供するよりも、霊的な理想状態と、聖書的な理想を人々に指し占めすことに力を入れている。

つまりは、毎週教会で説教を聞くことによって、私たちはどうあるべきなのかを教えられるのだが、聖書の教える理想へどのように近づいていくのかということについては、僅かな知恵しか与えられない。消化不良の状態に取り残されることになる。

たとえ、教会や神学校が霊的形成の効果に関心を向けていたとしても、彼らの活動は単に弟子訓練に聖書的根拠を添えつけたようなものである。そのような間違った霊的ギャップへのアプローチは、霊性の成長において、神学的な理想と現実のギャップを生じさせ、霊的な生活と実際生活との断絶を引き起こすのである。

これらの状況が引き起こす結果、教会は次のような特徴を表し始める。(a)行動が強調されるが、神学的な裏付けは貧相で、方向性が定まらない、もしくは、(b)しっかりとした教理を持っているが、実際には活力がない、もしくは表面的でしばしば傲慢である。

これらのことから、どのようにして神学が示す高い理想と、実際生活の間にある霊的ギャップを埋めかということが、牧師や地域教会での宣教において、答を必要としている課題である。霊的形成の博士過程では、既に神学の学位を持つ牧師や、宣教に携わってきた学生達が学んでいるが、彼らから受ける、最も多い相談は次の様なものである。

「どのようにして説教するのか、人々に教えるのか、教会を運営するのか、そのようなことは知っている。しかし、十分にお祈りをしていないとか、神を愛していないとか霊的な課題を相談される時、私は聖句を引用して、もっと祈り神を愛するべきだと伝えます。すると彼らはこう言います。「そのようなことは知っています。しかし何かが違うんです。私は、一体どうしてしまったのでしょう。」このような質問を受ける時、私は何と言っていいのか、どうして良いかわからないのです。全く、行き詰まってしまいます。人々は成長しているのか、そもそも私自身は成長しているのかどうかすらも、分からないのです。」

私達の神学教育や、神学校におけるトレーニングは何かが間違っているのである。変更するべきところがあるのだ。」


はい、一応ここで、段落的にも一区切りです。

教会では、理想のクリスチャン像、どうあるべきかということは教えるが、実際に私達がどうすればそうなれるのか、どう理解すればその、あるべき姿に近づくのかということは、十分に提示していないということを指摘しています。

「たとえ、教会や神学校が霊的形成の効果に関心を向けていたとしても、彼らの活動は単に弟子訓練に聖書的根拠を添えつけたようなものである。そのような間違った霊的ギャップへのアプローチは、霊性の成長において、神学的な理想と現実のギャップを生じさせ、霊的な生活と実際生活との断絶を引き起こすのである。」

霊性をどのようにして形成するか、という課題に対し、布教や教会活動に聖書的な根拠を添えつけ、そこに参加することによって、霊性が形成されるという誤解をしている、と指摘しているのだと思われます。
本文中の「弟子訓練」の内容が、具体的に出ていなくて、何を指しているのかが、今の段階ではわかりません。しかし、後で出てくる、「Sanctification(きよさ)」へのプロセスを、行動や教会活動で埋めようとする取り組みが、霊的ギャップを生み出す原因として挙げられます。そのため、霊性の形成のプロセスを、通常の伝道活動と一緒くたにして考えてしまっているよ、ということを意味しているのだと思います。

伝道活動と、霊性の形成をごちゃまぜにすると、結果として、

「(a)行動が強調されるが、神学的な裏付けは貧相で、方向性が定まらない、もしくは、(b)しっかりとした教理を持っているが、実際には活力がない、もしくは表面的でしばしば傲慢である。」

ということになると。
つまり、(a)信仰を深めるために活動(奉仕、日課)が奨励されるが、そもそも聖書には、行動によって信仰が深まるとは書いていないため、努力の結果がどこに向かっているのか良くわからない。(b)活動の根拠を持っているが、義務的になっていて、活力がない。表面的であるか、もしくはパリサイ人が自分たちの決まり事を守って満足して、他者を見下していたように、「義務」を全うすることによって、自分は正しいという、霊的な慢心に陥る。

ということかなー思います。

先が長いな~お休みなさい。